少女たちの夏 第二話





───夢、夢を見ている



───7年前のあの日、ボクたちがまだ子供だった頃の夢



───それはとても悲しくて、とても楽しい思い出



───真夏の中で過ごした、忘れられない記憶



───その夢の中でボクはたいやきを食べていたんだ







「喰えるかっ!!」


ガバッと布団から起き上がる。


…………


…………寝起きで頭がはっきりとしない。
……そう言えば、自分は今、何かを叫んでいたような気がする。
……まぁ、良いか。
そんなことよりも今は


「……暑い」


この事の方が問題だった。
パジャマがじっとりと汗で濡れている。
おまけに、何かよく分からんが、やたら暑苦しい夢を見ていた気がする。
そのせいだろうか、二度寝する気も起きない。


「………」


ドタバタドタバタ


───制服どこ〜
───う〜、見つからないよ〜
───遅刻しちゃうよ〜


目が覚めたあたりから、断続的にバタバタと誰かが走り回っている音が聞こえていた。ついでに緊張感が全く感じられない声も。


「……そう言えば、引越してきたんだよな、俺」


昨日、干からびそうになりながらも、何とか引越し先である叔母さんの家へと俺は辿り着いていた。ちなみに引越しの理由は海外へと転勤する親について行きたくなかったという単純明快なもの。さすがに住み慣れた日本から離れたくはないからな。


…………


「新生活の始まりか……」


妙な感慨に浸ってしまう。


ドタバタドタバタ

ガチャッ


「──ねぇ、お父さん、私の制服知らない?」


突然ドアが開いて、従姉妹の女性が進入してくる。

──昨日の俺を干物にしようとした張本人だ。


「……名雪、せめてノックぐらいしろよな」

「あっ、…うん。今度から気をつけるよ」


少しシュンとする名雪。


「…それじゃあ、失礼しました」


とぼとぼと部屋から出て行く。───待て、本題を忘れているぞ。


「お前の制服って、確か秋子さんが洗濯したんじゃなかったか」


昨日の出迎えに制服姿で名雪が現れたため、よく覚えていた。ちなみに秋子さんとは俺の叔母で、名雪の母親でもある。


「わっ、そうだったよ〜。ありがとうだよ、お父さん」


にこっと笑顔を浮かべて名雪は去っていく。


…………


───少し湿ってるよ〜
───う〜
───でも、今日は暑いから大丈夫だよね


ばたばた


───…お母さん、行ってきますっ!
───はい、いってらっしゃい


「………お父さん、か…」

名雪が外出したのを見計らって、俺もパジャマから着替えて一階へと下りていった。










「おはようございます、祐一さん」

「おはようございます、秋子さん」


居間へ行くと、秋子さんがニコニコ笑顔を浮かべて俺を出迎えてくれた。


「今日、名雪は学校ですか」


今日が日曜日であることと、名雪が必死に制服を探していたことを思い出して訊ねる。


「はい、部活があるんですよ」

「へぇ、あいつって何の部活に入っているんです?」

「水泳部です」


…………


「……設定では陸上部だったはずだが…」

「何か言いましたか、祐一さん」

「いえ、こっちの話です。それにしても、名雪と水泳って結構合ってそうですね」

「そうですね。あの子も自分で言ってましたよ。自分は人よりも少しのんびりしているから、水の上でぷかぷか浮かんでいるのが似合っている、って」


何となく水にぷかぷか浮かぶ名雪と言う光景が想像できる。
ただ、俺の想像は、海の上で浮き輪と共にどんどん流されていく名雪の姿を描いていたと言うのが難だが。


「でも、後から自分が想像していたものと水泳は全然違うって、嘆いていましたよ」


まぁ、そりゃそうだ。水泳は体中の筋肉を使うだろうし、練習はたくさんするだろうし、ハードなスポーツであることは目に見えている。


「ところで、祐一さん。そろそろお食事にしましょうか?」


そう言えば、結構おなかがすいている気がする。


「……いえ、その前に少し話をしませんか──名雪について」


空腹よりも今は名雪に関することの方が重要だった。と言うより、それを解決させないと俺の今後が危うい。……色々な意味で。


「……そうですね、祐一さんには説明しないといけませんね」










俺と秋子さんは居間のソファに、向かい合うよう腰掛けた。


「何からお話すれば良いのでしょうね。──たくさんのことがありましたから」

「とりあえず、俺のことを名雪が『お父さん』と呼ぶ理由が知りたいです」

「分かりました。──あれは今から7年前、祐一さんがこの町から去ってすぐ後の話です」


俺は7年前までこの町に毎年のように訪れていた。だが、それもわけあって6年前からは訪れてはいなかった。


「あの頃、名雪には一人の可愛いお友達が居たんです。ですから、名雪は祐一さんが居なくなってからもそれほど寂しがらずに毎日を送っていられました。…でも、そんなある日、名雪の目の前で事故が起きたんです」

「事故ですか……?」

「はい。…名雪のそのお友達が木から落ちたんです。その木は樹齢何百年と経っていましたから、随分高いところに枝がありました。そのお友達、あゆちゃんと言うんですけど、あゆちゃんは木登りが得意だったらしく、かなり高いところにある枝のところまでいつも登っていたそうです。でもあの日、強い突風が吹いて彼女を無常にもそこから突き落としてしまいました」


そこまで言って、秋子さんは目を伏せる。その様子からそのあゆという子供が無事では済まなかったことがうかがえる。


「…名雪は元来、あまり心の強い子じゃないんですよ。ですから、あの日のショックが大きかったのか、名雪は記憶を閉ざしてしまいました」

「記憶を閉ざす……記憶喪失に似たようなものですか?」

「そうです。…それで、名雪の閉ざした記憶というのは自分の悲しいと思っていた事柄だけで、他の記憶には影響はありませんでした。だから、普通に生活が出来ますし、学校にだって通えます。ただ、あゆちゃんの記憶と私の夫、あの子の父親の記憶だけがすっぽりと抜け落ちていました」


記憶喪失も自分の都合の悪い記憶を封じ込めるために起こる場合があることを、俺は知識として知っている。だから、秋子さんの説明に妙に納得してしまう。
秋子さんは続ける。


「お医者さんが言うには、それは名雪が自分の心を守ろうとして起こした防衛手段なのだそうです。だから、記憶を無理に思い出させようとすれば名雪の心が壊れてしまう可能性があります。…あゆちゃんの記憶は普段の生活で思い出すことはありません。二人には特に物として思い出を残しておくようなものが無かったようですから。でも、父親の記憶には限界がありました」

「限界…ですか」

「はい。名雪はあの時はまだ父親の死というものをよく理解していませんでしたから、私も無理に説明することはしませんでした。ただ、父親が自分の家にはいないと言うことだけは、理由がどうあれ名雪は理解していたようでした。だけど、記憶を失ってからは父親がいないということに今まで以上に疑問を抱くようになりました。もしかしたら、あの子も本来ならそう言うことを理解する年齢になったからなのかもしれません。とにかく、それは名雪の心に負担をかけ始めました」


秋子さんの表情が徐々に強張っていく。
そんな叔母の表情を見たのは初めてだった。俺の記憶の中には笑顔の彼女しか存在しない。だからだろうか、その表情がひどく気になった。


「心への負担は名雪の心を不安定にしていきました。始めは少し調子が悪くて、学校をたまに早退するだけだったんです。ですが、日を追うごとに名雪は理由も無く泣くようになり、最後には学校に行くことも困難になりました。心理カウンセリングも受けましたが、効果は薄かったです。…そして、ある日、名雪は一枚の写真を見つけたのです」

「写真……」

「はい。それは名雪と祐一さんが写っている写真でした。私から見てもその写真に写っている二人はとても仲むつまじいものがありました。ただ、その写真は少し他のものとは一線を引いていました。何と言いましょうか、その写真の祐一さんからは名雪に対する深い慈愛のようなものが感じられたんです」


何となくその写真には覚えがあった。
確か、水瀬家の庭で撮った写真だと思う。あの頃の俺は正直、名雪のことが可愛くて仕方が無かった。いつも俺の後ろにひょこひょことついてくる名雪。そんな彼女のことを自分に妹が出来たかのように大切に思っていたことを覚えている。秋子さんの言うような慈愛なんて立派なものではなかったが、それほど間違っているとも言えない。


「それを名雪も感じ取ったのか、名雪は私に写真を見せて『この人が私のお父さんなの?』と聞いたんです。…常識的に考えれば父親であるはずがないのですが、名雪の未発達な心はそれをも許容してしまいました。いえ、この時の名雪はそれほど余裕がなかったのでしょう」


おそらく秋子さんは触れなかったが、俺に対する記憶も名雪は欠落していたのだろう。
何たって、7年前のあの日は名雪にもうこの町に来れないかもしれないと伝えた日なのだから。


「……祐一さん、もうお察しかと思いますが、私はあなたを名雪の父親であると偽りました。そのことを決して許してほしいとは言いません。ですが、このまま名前だけで良いですから、名雪の父親とあってくれませんか。──お願いします」


深々と頭を下げる秋子さん。
何と言おうか、それは娘を必死に守ろうとしている母の姿と重なっていた。いや、それそのものであった。

───彼女は彼女なりに今まで名雪を守ろうと一生懸命やってきたのだと思う。あの時、名雪に対して俺のことを父親であると告げたのだって、秋子さんにとっては考えられるうちで最善のことだったのだろう。それに彼女の性格を考えると俺や自分の夫に対して後ろめたい気持ちを抱いてしまい、いつも悩んでいたに違いない。だからこそ、名雪は今でも笑顔でいれる。───そんな秋子さんの頼みを俺がどうして断れるだろうか。それに俺だって名雪が壊れてしまう姿を見たくはない。


「……俺も名雪の心を守りたいですから。…だから、秋子さん頭を上げてください」

「……良いのですか、祐一さん」


俺は無言で頷く。


「ありがとうございます」


秋子さんは本当に心の底から感謝しているのだろう、言葉からは率直にその感情が伝わってくる。










「──ええと、朝食にしましょうか。恥ずかしながら、私はおなかがすいてしまいました」


先ほどとはうって変わって明るい口調で秋子さんは言う。


「そうですね、俺もぺこぺこです」

「それじゃあ、少し待っていて下さいね」


そう言って、秋子さんは台所へ行こうとする。


「──ああそうだ、秋子さん」

「はい、なんでしょう」


秋子さんは足を止めて、こちらを向く。
俺は秋子さんに言わなければならないことがあった。


「……その、…秋子さんに思いつめたような顔は似合いませんよ。いつでも笑顔でいてください」


先ほどの強張ったタ秋子さんの表情がどうしても頭から離れなかった。たぶんそれは彼女の表情があまりも辛すぎるように見えたから。出来る事ならいつも笑顔でいてくれる叔母にはそんな表情はしてほしくは無かった。


「………祐一さんは優しいですね」

「いえ、そんなことはありませんよ」


俺は秋子さんの辛そうな表情を見るのが嫌だったから、ただそれだけ。他に理由なんて無い。
だから、別に優しさなどは関係ない。俺自身の自己満足で笑顔でいてほしいと言っているだけなのだから。
















「……祐一さんが私の甥でなかったら、名雪の本当の父親になってもらうのですが…」


…………


「えっ?」


今、とんでもない事を秋子さんは口走りませんでしたか?


「独り言です。気にしないでください」


そう言って秋子さんは台所へと消えていった。

──いや、秋子さん、気にするって。


俺は朝食が出てくるまでの間、ずっとその意味を考え続けていた。










つづく