俺は幸せを手に入れた。
───辛いこと、悲しいこと、逃げ出したくなること、誰かを傷つけてしまったこと───たくさんのことを乗り越えてやっと掴んだから、俺は一層それを貴く思う。
掴んだものはどこにでもありそうな平凡で、ありふれた幸せ。だけど、それは何にも変えられないもの。
今の自分なら、胸を張って断言できる。
───幸せだ、と。
だけどその反面、今の自分とは違う選択をして、違う運命を辿った自身を見てみたいと思っている自分もいる。決して、今という環境に不満があるわけではない。それでも、それを思い描いてしまうのは何故なのだろうか。


「───祐一、ゆういちっ!!」
誰かが俺を呼んでいる。それはひどく聞きなれた人の声。
「……ねぇ、…ゆういちっ、返事してよ……」
自分が最も愛しいと思っている人の声が聞こえる。
「───ゆういち……嘘だよね……」
彼女は泣いていた。そんな彼女を見ると俺も悲しくなる。
───でも、どうして彼女は泣いているのだろうか。俺たちはこんなにも幸せなのに。















優しさをもう一欠けらだけ 前編















ゆさゆさゆさ
────ん、地震か? うーん、これは結構な揺れだな。
頭がぼーっとする。眠い。早く逃げないと地震の被害に遭ってしまう。……いまいち考えがまとまらない。
───でも、眠いからいいか。
ゆさゆさゆさ
まだ揺れは続く。だけど、それが眠気との相乗効果によってまぶたはますます開くのを拒んでしまう。
「ほらっ、相沢くん起きなさい」
……眠い。
「もう……。名雪は部活に行っちゃったわよ」
……名雪、俺の従姉妹の名前。……部活に行った…らしい。……徐々に思考が活性化していく。
「───うおっ! ……香里!?」
「……はぁ、やっと起きたの。……あなたが名雪の従姉妹だって言うのが良く分かったわ」
香里はどこか疲れたようにため息をつく。
「……ええと、その、……香里、だよな」
「まだ寝ぼけてるの?」
「いや、……ん、よし。目が覚めた」
目の前にいるのは正真正銘香里である。俺の知識がそう認識している。だったら何故、俺は疑問を覚えたのだろうか。
───違和感。
「そう言えば、香里が起こしてくれたんだよな?」
教室内を見渡すと俺と香里の二人以外誰もいなかった。状況はよく分からないが、辺りは既に暗い。だから、そんな時間に香里が俺を起こしてくれていることが不思議だった。
「……名雪に頼まれたのよ。自分は部活に行かないといけないから、って」
少し気になる部分があった。───ええと、名雪がいつも部活に行く時間は……。
「……もしかして、結構な時間俺を起こそうとしていたり……して」
香里がじろりと俺を睨む。
「ええ、貴重な放課後が丸つぶれよ」
どうやら俺も名雪ほどとは言わないが、いったん眠ったら起き難い人間らしい。
「……すいません」
「別に良いわよ。後で埋め合わせはしてもらうけどね」
「……了解」


「ところで、今日は栞と一緒じゃないのか」
場の流れで、下校を共にすることになった香里にさりげなく訊ねる。俺の記憶によれば香里は栞が学校に来るようになってからは毎日のように一緒に帰っていたはずだ。
「!! ────し、栞って誰?」
呆れるほど分かりやすく動揺を見せる香里。
「ん、栞と喧嘩でもしたのか。まったく、しょうがない奴だな」
「────」
「まぁ、明日にでもなればいつものように仲良くしていそうだけどな、香里の場合」
世間一般には喧嘩するほど仲が良いとも言う。そもそも一緒に居る時間が長いもの同士が喧嘩しないということ自体有り得ないのだ。
「────相沢くん、それはどういうこと?」
「いや、だからな。お前と栞は仲の良い姉妹だから、直ぐ仲直りするだろう、って」
「────」
「? 変な奴だな」
どこか香里の様子がおかしい。栞の話を始めた辺りからずっと俺に視線を合わせようとしていない。それに、無言になることも多くなっている。
「───────────の─」
「ん?」
「───なんで、相沢くんが栞のことを知っているの!!」
「はあっ?」
「どうしてよ! どうしてあなたが知っているのよ!!」
「ど、どうしても何も、いつも会っているだろ栞とは」
ますます香里の言っていることが分からない。彼女が何に対して怒っているのか。何故栞のことを否定しようとするのか。───これじゃ、まるで昔の香里を見ているようだ。
「────知らない」
「えっ?」
喉の奥から絞り出すような香里の声。それには悲哀のような響きが混じっている。
「そんなこと私知らない。───そんなの有り得ない。そんなのおかしい!」
何かを恐れるように、何かを否定するように香里は言葉を投げつけてくる。
「私は栞を拒絶しているのよ。なのに───何故、あなたはそんな光景を見ているの」
───違和感。
俺は何かを忘れているのではないか。どこかでずれが生じているのではないか。そんな考えが頭を過ぎる。
香里、姉妹、拒絶、恐れ、否定、過去、栞、光景、言葉───それら全てから一つの仮定が導き出された。
「香里、今日はいつだ?」
「────何を言っているのよ。あなたは!」
香里の心はまだ乱れている。だけど、これは確実に確認をとらなければならない。
「いいから答えてくれ! 今日は何月何日だ」
俺の真剣な口調に彼女は少しずつ冷静さを取り戻していく。
「……今日は10日。1月10日よ」
「────っ、それは、俺が転校してきてそれほど経っていない時の1月10日か?」
「……何を言っているの?」
「それで間違いないんだな」
仮定が確証へと変わる。有り得ない事象に対しての確固たる確信を持つ。
「え、ええ」
その一言が全てを俺に理解させた。
「───香里」
「なに?」
これから彼女に話そうとしていることは非現実的なこと。それはもしかしたら、一笑されて終わるかもしれない。だけど、香里だったら理解してもらえるかもしれないと言う望みがあった。そして、何よりもこの現実に対する理解者が欲しかった。───自分一人では抱えきれないかもしれないから。
「時間逆行と言うのを知っているか?」
少しの間、香里は考える素振りを見せ、口を開く。
「未来から過去、過去から未来に行けるとかそう言うのかしら」
「ああ」
「───なにを言いたいの?」
もう既に香里から動揺という要素は消え失せている。ただ単にこの話題が突拍子過ぎて、彼女の思考が別の部分を見ているからなのかもしれないが。なんにしろ、彼女が冷静でいてくれることはありがたい。第三者の客観的な目でこの非現実を見てもらえるから。
「俺は時間逆行をしている。たぶんそれは間違いない」
「はぁ?」
理解出来ない。それが普通の反応だろう。現に今の香里もそれに当てはまる。だが───
「俺が栞を知っていたのもそのせいだ」
「────っ」
香里の息を呑む音が聞こえる。それは当然のこと、俺が栞を知っているということは現時点ではありえるはずの無い出来事だからだ。加えて、街中で栞に出会ったと仮定することは不可能であった。以前、栞本人に聞いた話によるとほとんど毎日を病院内の重症患者施設か自宅で過ごし、俺と知り合う日までは本当に外に出ることは無かったそうだ。───その事実は何よりも香里本人が知っていることだろう。
「俺も本当は半信半疑なんだ。……だけど、これは現実として起きてしまっている」
俺と香里の間に長い沈黙がおとずれる。───それはそれぞれに考える時間を与えるには充分だった。
「……相沢くん、教えて。私と栞は、その、未来ではどうなっているの」
恐れ。香里は未来を知るのを恐れている。だけど、一つの可能性を見て彼女はその質問を口にする。
「───仲の良い姉妹だよ。……誰もが羨むぐらいの」
「そう────そうなの?」
「ああ」
「………そうなんだ───」
様々な感情の篭った彼女の言葉。だけど、その中には確かに安堵があった。
「……そう言えば、今の段階だとお前は栞のことを、その……拒絶しているんだったよな」
「────っ!?」
香里の表情が自己を責めるものへと変わっていく。
「悪い。失言だった」
「────いえ、間違ってないわ」
そう、彼女は昔こんな表情をしていた。こんなにも辛そうで、こんなにも自分を偽っている、そんな表情を。
「あの、さ……。余計なお世話かもしれないけど、栞と仲直りした方が良い、と思う」
俺の知っている香里と栞は本当に仲が良くて、二人とも笑顔で幸せそうだった。
「あいつはお前のことが本当に好きなんだ。だけど、お前が心を閉ざしているせいであいつは寂しい思いをしている。────俺はそんな栞とお前の関係を見ているのが正直、辛い」
「────」
香里は何かに耐えるようにして、答えない。
「まぁ、直ぐにとは言わないさ」
それほど今の彼女らの間の溝は深い、と言うことか。
「───ねぇ、相沢くん」
ぽつりと香里が言葉を浮かべる。
「栞の病気は治るの?」
率直な質問。今彼女が一番知りたいことがそれだった。そして、香里の心を頑なにしているのもそれが原因だった。
だから、俺は答える。ありのままの現実を。未来に起こるであろうことを。
「治ったよ」
「本当? 本当に!?」
すがるような香里の声。今の彼女は触れるだけで壊れてしまいそうなぐらいにか弱い。
「もちろんだ」
確信を篭めて俺は告げる。香里を不安にさせないために。
────だが、疑問がある。栞の病気が何故完治したのかが分からない。彼女の病は決して治せるようなものでは───っ!
急にずきりと頭が痛んだ。
「相沢くん!」
香里が俺の名前を強く呼ぶ。
「……ん、どうした」
「大丈夫? 顔が真っ青よ」
心配そうな香里の表情が少し俺の胸を痛める。
「……大丈夫だよ」
ただ、少しだけ頭が痛んだだけだ。何も彼女を心配させることなんて無い。今はそれよりも大事なことがあるはずだ。
「とにかく栞の病気は治るから、お前は何も心配することなんてないんだ。───大丈夫、栞はお前を受け入れてくれるさ」
「───こんな私でも?」
不安。それは今まで自分が行ってきたことに対する感情の表れ。だけど、そんなことを気にする必要はない。
「ああ、もちろんだ。───あいつは優しいからな」
出来る限り優しさを表情に浮かべて俺は答える。
「────」
「香里も知っているだろう?」
栞がどれだけ優しい子であるかは香里が一番分かっている。だから、その優しさが怖くて香里は一度逃げ出した。けれど、もう彼女は大丈夫なはずだ。───だって、香里は…………。
「ええ、もちろんよ」
彼女の表情は既に姉のそれだった。















つづく