「────あれっ」
気がついた時には香里の姿はなかった。目の前の映像が一瞬にして移り変わったようなそんな錯覚を覚える。
───いや、錯覚でないかもしれない。
見覚えのある部屋作り、落ち着きのある内装。それが辺りに広まっている。先ほどまでの学校とは似ても似つかない場所。……ここは水瀬家の一室だった。
はあっ、はあっ────くっ……
誰かの苦しげな息遣いが聞こえる。俺の非現実に対する思考はその音で中断される。
「───大丈夫よ、真琴。……大丈夫だからね」
優しげな叔母の声が聞こえる。───秋子さんは笑顔を、何か別の感情を堪えたような笑顔を浮かべて、床についている誰かの手を握っていた。
これは────いったい……
ほんの数瞬前とは似ても似つかない状況。俺の思考は未だにこの状況についていっていなかった。
───だが、この光景には見覚えがある。
俺は無意識に、それがさも当然であるかのように言葉を口にする。
「───大丈夫だ、真琴。俺はここに居る」
秋子さんの甲の上から少女の小さな手を優しく握る。
「……だから、安心して眠っても良いんだ」
途端、少女──真琴の呼吸が静かになっていく。
────くー
疲れたのか真琴は安らかな表情で寝息をたてる。───この表情にも見覚えがあった。それはある一つの別れの手前にあった出来事。そんな記憶の中の光景を今は現実として───俺は真琴のもとにいる。


「これで一安心ですね」
秋子さんが心底安心した口調で告げる。
「えっ、……ええ」
だけど、俺の感情は素直にそれを一安心として受け入れることは出来ない。
「あの、秋子さん」
「なんでしょう」
「今日はいつですか」
「えっ?」
秋子さんにしては珍しく驚きの表情を浮かべている。当たり前か、こんな突拍子もない質問、意味が分からないに決まっている。……それでも俺は確認しなければならない。
「その、今日は1月10日ではないですよね……やっぱり」
恐らく否定されるであろう言葉を口にしてしまう。
「────今日は25日ですよ。どうしたんです、祐一さん?」
やはり否定された。いやそれより、あのたった一瞬で2週間近くも時間が流れていたことの方が重要だった。───ここまでくると自分でも馬鹿らしくなってくる。非現実であることは認めていた。だけど、未だにそれを理解しきれていない自分がいる。
「……やっぱり変ですよね、俺」
「祐一さん……」
この状況を秋子さんに言うべきか。香里の時は半信半疑とは言え理解してもらうことが出来た。でも、今度はどうなのだろうか。
───不安。
俺はどうしようもなく孤独で不安だった。正常な時間の流れの中で自分だけが、それに逆らって生きている。だからだろうか、誰かに自分のこの状況を理解して欲しい、と思うのは。
「……秋子さん、俺は……今、時間をさかのぼっています。……だから、ここにいる俺はあなたが知っている相沢祐一じゃないんです」
今ここにいる相沢祐一は未来の自分。いや、この場には俺と言う存在が他に存在しないことからある意味ではそれも違うのかもしれない。───自分という概念が気薄になっている。時を戻ると言う行為は俺にそんな感情を抱かせた。
「───時間逆行ですか……?」
「はい」
秋子さんが時間逆行という言葉を口にするのは意外だったが、まさにこの状況はそれ以外に適当な言葉は無い。
「分かりました」
秋子さんはいつもと変わらない自然な様子で肯定を示す。
「───しっ、信じてくれるんですか! 秋子さん」
自分で言っておいて何だが、これほど簡単に理解してもらえるとは思わなかった。
「もちろんです。祐一さんは嘘をつきませんから」
「秋子さん………その、ありがとうございます」
秋子さんの俺を見つめる瞳はどこまでも真摯で、そして、自分は信頼されているという事実に、胸が熱くなった。


「───それじゃあ、今から話すことはそれを前提として聞いてください」
「はい」
俺は自然にそんなことを口にしていた。自身の状況に対しての理解者を得たことで、自分のしなくてはならないことが見えてきたからだろうか。
「────俺は過去、つまり今なんですが、に真琴が高熱を出して倒れるということを体験しています」
時間逆行という現象は何も俺を混乱させるだけのものではない。時間をさかのぼると言うことはすなわち、未来を知りながらも過去に存在できることを指す。それに違わず俺も未来を知りながらここに存在している。なら、自分はこの現象を利用するだけのこと。
「だから、今の真琴の症状が普通の病気とは違うことを知っています。……自然治癒も医療的治癒も望めません。ただ、このまま───真琴が死ぬのを待つだけのものです」
「───っ──!」
秋子さんは声を押し殺す。何かを言いたげに叔母は口を開きかけたが、言葉にはしない。───改めて彼女が血のつながりなど関係なしで、真琴の母親であることを理解した。
「……すみません。でも、本当のことなんです。───ただ、俺もそんな結末は望みませんし、未来、俺にとっては過去において、真琴は助かっています」
そう、真琴は助かった。だけど、何故彼女は助かったのか、わからな……い…。
───違和感。
記憶の欠落があるような気がした。───だけど、今は取るに足らないことのような気がする。
「……秋子さんはものみの丘に住むキツネの話を知っていますか」
「ものみの丘……たしか、そこに住むキツネは不思議な力を持っている、という話ですか」
「はい。信じられないでしょうが、その話は事実です。そして───そのキツネが真琴なんです」
自分でも耳を疑ってしまうであろう言葉。だけど、俺はそれを確かに過去で体験した。
「───祐一さんが昔助けたキツネが……真琴だったのですか……?」
「!!」
秋子さんの口から出てきた言葉は予想もしていないものだった。
「……知っていたんですか、秋子さん」
「はい、よく二人で遊びましたから」
たぶん、俺が留守にしている間、彼女はこっそりと真琴の面倒を見てくれていたのだろう。
「そうだったんですか。……その、すいませんでした」
「いえ、良いんですよ。それよりも真琴を助けるためにはどうすれば良いのでしょうか」
そうだ。俺は真琴を救わないといけない。
「────家族としての記憶を、かけがえの無い思い出をあいつと共につくることが大事なんです」
真琴が助かった理由が分からないはずなのに口からは自然と言葉がもれていた。
───違和感。
「真琴はこれからどんどん人間としての機能を失っていくはずです。だけど、最後まで、そう最後まで家族として接してあげれれば、きっと───」
───助かる。
そして、俺たちは家族なんだから何も心配に思うことなんてない。
「───分かりました。……祐一さん、真琴の熱が下がったら名雪も誘って皆で遊びに行きましょう」
「はい、あいつも喜びますよ」















優しさをもう一欠けらだけ 後編
















次の日、俺は真琴との接点を持つもう一人の人物と会っていた。
「───そんな酷なことはないでしょう」
少女は明らかな怒りを持って俺を睨んでいる。───でも、笑顔だったら、どれほど可憐なのだろうか。そんな考えが一瞬頭を過ぎる。が、それは今は関係のない思考だ。
「頼む、あいつの友達になってくれないか」
もう一度俺は同じ言葉を口にする。
「消えるのが分かっているのに、どうしてそんなことが言えるんですか! ……私はもう耐え切れません」
「あいつは消えない」
「えっ?」
目の前にいる少女はただ純粋に驚きをあらわにする。
「あいつは消えないよ。絶対に」
確信を篭めた強い言葉。
「そんな根拠のないことを……」
「───天野、いつまでも心を閉ざしていては駄目だ。前に進めなくなる」
「……余計なお世話です」
彼女──天野美汐は無表情を装って顔をそらす。
「ああ、そんなことは分かっているよ。だけどな、俺は元来おせっかいなんだよ。だから、お前が嫌がっても真琴の友達になってもらう」
「………それでも私は……」
躊躇い。彼女は過去に大切な友人を失った。それはどういう運命の巡り合わせか、彼女のたった一人の友人もものみの丘のキツネだった。……俺は残酷なことをしているのかもしれない。彼女にもう一度同じ体験をさせようとしているのだから。だけど、結末は違う。違うからこそ彼女を変える機会と成り得る。自己勝手な思い込みかもしれない、迷惑なことかもしれない。それでも、相沢祐一は望む。彼女が前に進むことを。
「大丈夫。お前は変われるよ。笑顔の似合う素敵なやつにな」
「───なっ、何を言っているんですか」
顔を真っ赤にして天野は俺の顔を見つめる。そこには確かに不安の色がある。だけど、少しだけ、ほんの少しだけ希望が見えた。
「そう、変われるよ。お前なら」















場面は変わる。
「────ここは?」
目の前にいた天野の姿は幻のように消え失せていた。
薄暗い部屋。微かな照明が辛うじて、辺りの様子を見せてくれる。
そして、気付く。隣にはピクリとも動かない従姉妹の姿あることに。
「名雪……?」
彼女は何も言わない。
何故こんな状況に。何故彼女はこんなにも消沈しているのか。ここは何処なんだ。次々と疑問が浮かんでいく。
────ここは病院。
答えが一つ出た。そして、記憶が急速にある場面を映し出す。
病院、暗闇、夜、名雪、孤独、ランプ、椅子、手術、叔母、事故───
そうか……秋子さんは事故に遭って。
───手術中のランプが消える。
「…お母さん、お母さんはっ!!」
医師が出てきたのと名雪が動いたのはほぼ同時だった。
「落ち着いてください、水瀬さん」
「お母さん、お母さんはっ!!」
若い医師は必死に名雪を落ち着かせようとするが、彼女は一向に冷静さを取り戻そうとはしない。
「名雪、落ち着け!」
俺は仕方なく名雪を後ろから羽交い絞めにする。始めは取り乱して暴れていた名雪だったが、次第に動きが緩慢になっていった。
俺は完全に彼女が落ち着いたのを見計らって、医師に状況を聞いた。
「それで、手術は?」
「───手術自体は成功しました」
その言葉を聞いて、名雪はホッとしたような様子を見せる。……だが、俺は未来を知っている。だから、医師が次に続る言葉も知っている。
「……ですが、危険な状態です」
「お母さん………」
ガクっと力が抜けたように倒れこむ名雪。俺は寸前のところで名雪を両腕で支えた。













帰り道。
無言で二人は道を歩く。……こう言うとき未来を知っているのは酷だと思う。言葉を口にしたくても、それに対して彼女がどんな反応をとるのかは分かっている。それでも俺は彼女を放っておくことは出来なかった。
「───名雪」
「────」
無言。でも、それは分かりきっていたことだ。だから、言葉を続ける。
「大丈夫だよ。……秋子さんはこんなことに負けるような人じゃない」
名雪は生気の失せた表情で俺を一瞥して、口を開く。
「───祐一はどうしてそんなに冷静なの。お母さんが死んじゃうかもしれないんだよ。祐一はお母さんのことが心配じゃないのっ!」
名雪の反応は予想以上に強いものだった。だけど、怯むわけにはいかない。だって、今俺が口にしていることは気休めなんかじゃない。事実なんだから。
「当たり前だろ」
「……変だよ。祐一、変だよ」
名雪は冷静さを急激に失っていく。
「名雪……。秋子さんは死なない。絶対にな」
彼女はただ無言で仕切りに首を横に振るだけ。
「───俺はその未来を見てきたから」
名雪は動きを止める。そして、俺たちの間に長い──現実の時間じゃほんの少しの──沈黙が訪れる。
「────そんな……」
沈黙を始めに破ったのは名雪だった。
「そんな気休めなんていらない!!!」
彼女はわき目もふらずに走り出す。
「……待て、名雪!」
俺の制止は届かず、彼女の姿はあっという間に見えなくなっていた。















…………またか。
場面は移り変わった。俺は今、薄暗い廊下に立っている。ふと、下を見るとおぼんと中身の残った食器が見えた。俺の右手には使い慣れた、だけど、未来では使っていない目覚し時計。
直ぐに状況は理解出来た。これから起こることを一部始終理解している。俺が見ている今は、最も大事な人を手に入れたあの懐かしい日。───ここから幸せは始まったんだ。
コンコン
俺は目の前のドアを強くも無く、弱くも無い力でノックする。
「名雪、お前に伝えたいことがある」
─────。
中からは何も音は聞こえない。だけど、俺は続ける。
「……目覚まし時計は返すよ。もう、俺には必要ないからな」
───ガタッ──
微かに物音が聞こえた。それでも、彼女はまだ出てきてはくれないだろう。
「名雪、あの場所で待ってる」
あの日、過去に俺がそうしたように今の俺も同じことをしよう。
俺は目覚し時計をそっと床に置いて、名雪の部屋の前を離れる。
最後に、
「────名雪、待ってるからな」
と残して。















「───祐一、遅刻しちゃったよ」
雪の降る町で二人は7年ぶりに再開を果たした。
「─────お前はいつも遅刻だな」
少女は7年間、一人の少年のことだけを思い続けてきた。
「ねぇ、雪、積もってるよ……寒くない」
少女の瞳からは静かに涙が流れ出す。
「当たり前だ、何時間待たせたと思っているんだ」
少年はそんな少女のことを優しく見つめる。
「……祐一……私、わたしっ……!」
少年は何も言わず少女のことを優しく抱きしめた。そして、少女はその身体を少年にゆだねる。
「───名雪、聞いてくれるか」
少女は静かに首を動かす。それは肯定の現れ。
「俺は名雪のことが───」
二人の想いは今、一つになる。


「好きなんだ」


そして、二人の唇は重なり合った。















「────っ……ここは?」
頭がはっきりとしない。うまく思考が働かない。
「祐一、祐一っ!!」
目の前には愛しい人の泣き顔。
「………名雪……?」
先ほどまでとは少し違ったが、紛れも無く名雪本人だった。
「心配したんだよ………本当に心配したんだよ」
彼女は俺のことを想ってくれている。───それは多分、幸せなことなんだと思う。










「名雪、俺は夢を見たよ」
名雪は俺が事故に遭ったということを、ゆっくりと説明してくれた。詳しいことは省くがそれはとても酷い事故だったらしい。その中で俺が生きていたことは彼女に言わせれば奇跡なんだそうだ。そのせいなのだろうか、俺は長い眠りについていた。とは言っても、筋肉が衰えリハビリが必要になるぐらいの長い期間ではない。
「夢?」
そう、俺が体験したことは夢。断片的にしか見ることの出来なかった夢。だけど、何故かそう思うと切なくなってくる不思議な夢。
「……ああ。とても悲しくて、……とても幸せな夢を見ていたんだ」
あれは現実ではなかったけど、夢の中の皆はきっと幸せになれたと思う。だって、彼女たちは皆、今を、現実を、幸せに生きている。
「ねぇ、祐一。その夢の話をして欲しいな」
名雪は興味津々と言った様子で少し控えめに言う。
「ん? 恥ずかしい夢だぞ」
「えっ! 恥ずかしいの?」
「おう、何たって俺がお前に目覚まし時計を送ったときの夢だぞ」
「────う〜」
名雪は一瞬で真っ赤になって、可愛く唸るだけだった。
「どうした名雪? 真っ赤だぞ」
少し名雪をからかいたくなる。うーん、我ながら意地悪だな。……まぁ、惚れている好だ。
「…………目覚し時計に告白の言葉を入れるなんて、反則だよ……」
少し拗ねたように名雪は言う。
「ははっ、反則か。それも良いんじゃないか」
「………うん」
そう頷く名雪の笑顔がとても愛しくなって、俺も笑顔を浮かべる。

今、俺は断言出来るだろう。
───幸せであると。彼女と過ごせる今がどうしようもないぐらいに幸せだと。















───本当は夢じゃないんだよ。祐一くん。
一人の少女は寂しそうに告げる。
───全部、現実にあったことなんだよ。
だけど、彼女は笑顔を浮かべていた。
───でもね、ボクは祐一くんにいつも笑顔でいて欲しいんだ。
何故、少女はそんなに切ない笑顔なのだろう。
───たとえ、忘れられてもいい。君が笑顔なら。
少女の姿は誰も見ることが出来ない。
───だからね、祐一くん。
少女の声は誰にも聞こえない。
───ボク、願いごとを言うよ。
だから、全てのことが彼女の起こした奇跡であることを知るものはいない。















────僕の願いごとは────















────祐一くんが幸せでありますように────