伝わる想い 第四十七話「暖かい風」

Written by kio









「あの子は?」
 放課後、俺は美汐ちゃんの自宅を訪れていた。
「まだ眠っています」
「そうか……」
 真琴ちゃんの体調が回復しているかとも思ったが、期待通りとはいかないようだった。
 それきり話題が途切れ、無言の時間が続く。
 この前通された居間に俺は居た。
 目の前には美汐ちゃん。
 彼女はただじっと、俺が口を開くのを待っているように見える。
 この硬直状態から場を動かすのは俺の一言。
 『駄目だった』
 あれほど大見得を張っていたのに、結果はそれだ。
 あのイレギュラー的出来事がなければ、この場には相沢が居たのかもしれない。
 しかし、それは仮定の話。
 現実の今、相沢はここに居ない。
 明日、明後日、未来においても、相沢はここに居ないのかもしれない。
 あいつは真琴ちゃんが幸せになれたと信じていた。
 紛れもない笑顔だった。
 そして、あいつは今また、重い運命を背負ってしまった。
 …………。
 俺には、相沢にこれ以上の重荷を背負わせることなんて出来なかった。
「お昼の放送で相沢さんが呼ばれていました」
「え?」
 予想外にも、沈黙は美汐ちゃんの声で破られていた。
「それと何か関係がありますか?」
 『ここに相沢さんが居ない理由』『北川さんが落ち込んでいる理由』とその言葉は続くのだろう。
 感情を携えない視線が俺を見ている。
 美汐ちゃんは再度沈黙と言う手段で、俺の口を動かそうとしているようだった。
 いつまでも黙っているわけにもいかない。
 そもそも俺がこのことについて悩むのは場違いにも程があるだろう。
 苦しんでいるのは俺ではない。
 相沢、真琴ちゃん、目の前の美汐ちゃんなんだ。
 俺は重くなっていた口を無理やりに開いた。
「そう、だ。相沢が今やっかいになっているところの叔母さんが交通事故に遭って意識不明の重体になってしまった」
 他言無用にした方が良かったのかもしれないが、美汐ちゃんには事情を知ってもらっていた方が良いように思えた。
 それに彼女はこのことを誰かに話すような人ではないと確信していた。
「……そうですか」
 静かに目を伏せて彼女は感情を見せなかった。
「だから、相沢さんはここに来れない、と言うことですか」
「いや、違うんだ。それも理由の一つと言えば一つだが、本当の理由はそれじゃない」
 それではどんな理由ですか? と彼女の瞳が言っていた。
「相沢はあの子が幸せになったと思っていた。心の底からそう思っていたんだ。……俺はあいつの笑顔を見て、何も言えなくなった。そうまでして、あいつの幸せを俺が壊しても良いのかって疑問に思ったんだ」
 あいつの幸せそうな笑顔は誰よりも、真琴ちゃんが望んだものだったのかもしれない。
「幸せ……」
 美汐ちゃんは何か切ないような表情をして、真琴ちゃんの寝ている部屋の方に視線を向けた。
「それがあなたの願い、なのですね」
 それは俺にかけた言葉ではないのだろう。
 独り言、いや、真琴ちゃんへの言葉なのだと思う。
「……北川さん」
 ぼそりと彼女は俺の名前を呼ぶ。
「ここからあの子のことは私に一任させていただきます」
 一瞬、俺は彼女への反論の言葉を考えてしまう。
 だけど、言語化出来なかった。
 約束したんだ、美汐ちゃんと。
 相沢のことが終わったら、俺は手を引くと。
 正直、心残りなんて山ほどあった。
 でも、俺は無力だった。
 真琴ちゃんに相沢と会わせることも出来なければ、相沢に真相を告げることも出来なかった。
 だから、俺は無言で頷いていた。



「最後に彼女と会わせてくれないか?」
 最後の悪あがきだったのかもしれない。
 気がつくと俺はそう言っていた。
 美汐ちゃんは黙って俺を彼女の部屋に連れて行ってくれた。
 数日ぶりに見る彼女は、随分と顔の血色が良くなっているように見えた。
「体調はだいぶ良くなっています。目を覚ますのももうそろそろでしょう」
 小声で美汐ちゃんが教えてくれる。
 俺は真琴ちゃんの傍で腰を下ろし、毛布からはみ出ていた彼女の左手を優しく握った。
 室内の温度のせいか、熱のせいか、彼女の手の平はとても熱かった。
(真琴ちゃん、ごめん。俺には何も出来なかった)
 心中で呟き、ゆっくりと手を離そうとしたところで、その小さな手に握り返される。
 俺はこの時、どんな表情をしていたのだろう。
 目の前で、真琴ちゃんの瞳が開いていく。
 その視線が当てもなくうろうろとさ迷い、やがて俺と目が合った。
 彼女の顔が満面の笑顔に彩られる。
 そして──。
「祐一っ!!」
 バフッと言う衝撃と共に、真琴ちゃんが俺の胸元に飛び込んできた。
「ま、こと……ちゃん?」
「祐一祐一、ゆういちーーっ!!」
 真琴ちゃんが俺の胸に顔を擦り付けてくる。
 それは子供が親に甘えているかのような行動だった。
 でも、真琴ちゃん。俺は相沢じゃないよ。
 目覚めたばかりで混乱しているのかもしれないけど、俺は相沢祐一ではなく、北川潤なんだ。
 真琴ちゃんの顔がゆっくりと上を向いていく。
 そして、再度俺と視線があった。
 『あなた、誰?』
 そんな言葉を覚悟していた。
 ぬか喜びさせてごめん、と謝るつもりでいた。
 でも──。
「まったく、祐一ったらどこに居たのよ? 真琴探していたんだからね」
 ぎゅっと抱きつかれる。
「もう、真琴をおいてどっかに行っちゃ嫌なんだから……」
 真琴ちゃんから力から抜けていく。
 俺は危ういところで、彼女を受け止めて、静かに真琴ちゃんを布団に戻した。
 彼女はすーすー、と安らかな寝息を立てていた。
「……どうなっているんだ」
 誰に言うでもなく、俺は呟いていた。
 確かに真琴ちゃんは俺の顔をしっかりと見ていたはずだ。
 それなのに、相沢と見間違えていた?
 それに相沢を探していたって……、あいつが言っていたことと矛盾しているだろ。
 何が何だか……。
「北川さん」
 声をかけられて、ようやくここに美汐ちゃんが居たことを思い出す。
「ここでは何ですから、外で話しましょう」
 真琴ちゃんを起こさないように、静かに部屋から退出する。
 冬の寒気の吹きぬける廊下で、俺と美汐ちゃんは向かい合っていた。
「一度目の発熱はあの子たちの何かを変えてしまうんです」
 何かを決心したかのような瞳が俺を打つ。
 一瞬、それに怯みさえ覚えた俺だったが、何とか聞き返すことが出来ていた。
「何かを変えてしまう?」
「はい。私の時のあの子は、記憶の混乱、人間的能力の欠如でした。具体的には、記憶の順番が無秩序に前後していたり、喪失した記憶があったり、箸を持てなくなる、などです。……私の予想ですが、今のあの子も私の知っているあの子と同じ状態にあるのだと思います」
「だから、俺のことを相沢だと勘違いして……」
 それなら、相沢と真琴ちゃんの話の矛盾にも納得がいく。
「根本的にはあの子は野生の狐です。動物は人間ほど視覚に頼らず、どちらかと言うと嗅覚、聴覚を重視しています。ですから、あなたの見た目は問題ではないのでしょう。問題は嗅覚と聴覚。そのどちらか、あるいはそのどちらも、が衰えてしまっていると想像出来ます。元々人間以上に優れている嗅覚と聴覚ですから、衰えたと言っても人間並になった程度なのでしょうが」
「それに記憶の混乱が加わることで、俺が相沢に見えても不思議ではない、と言うことか」
「はい」
 美汐ちゃんがやはり無表情で肯定を示す。
(……やっと見つけた。俺が出来ることを)
 俺は元から、真琴ちゃんのことをなかったことには出来なかったんだ。
 このまま美汐ちゃんに彼女のことを任せても、俺は気になって眠れない日々を送っていただろう。
 だから、これは丁度良い機会だった。
 悪い、相沢。お前を借りるぜ。
「美汐ちゃん。俺が相沢としてあの子の傍に居ても良いかな?」
「……言っていることの意味を理解していますか?」
「もちろんだ。そして、これが俺の独善的な自己満足であることも、な」
 俺が相沢を演じると言うことは、真琴ちゃんを騙すこと。
 間接的には相沢をも騙すと言う意味合いを持つ。
 そこには正統的な理由など存在していなく、あるのは俺自身の自己満足だけであった。
 だけど、俺はそれでも真琴ちゃんの傍に居たかった。
 見て見ぬふりが出来ない性分もここまでくれば、最早一つの才能だなと、心中で苦笑する。
「……私が何を言っても無駄なんですね」
「そうなるかな」
 美汐ちゃんが深いため息を洩らしたように見えた。
「分かりました。ですが、最後にもう一度訊ねます。覚悟はおありですか?」
「ああ、もちろんだ」
 この瞬間から、俺は偽りの相沢祐一となった。



 真琴ちゃんとの日々はとても穏やかに過ぎていった。
 一言で言い表すと、それは幸せな日々だったのかもしれない。
 だけど、着実に真琴ちゃんの症状は悪くなっていく。
 箸を使えなくなり、立てなくなり、言葉も発することが出来なくなっていった。
 それでも、この日々は幸せなものであったと俺は信じたい。
 真琴ちゃんに美汐ちゃんと言う友人が出来、美汐ちゃんに真琴ちゃんと言う友人が出来た。
 真琴ちゃん、いや、真琴はよく笑顔を見せてくれていた。
 美汐ちゃんも素の表情をよく見せるようになっていた。
 彼女の心の何かが雪解けのように、ゆっくりと氷解していたのかもしれない。
 そして、俺は真琴ちゃんのことを愛するようになっていた。
 それは同情から生まれた愛だったのかもしれない。
 本当の意味で、恋をしたことのなかった俺には、その真偽は定かではなかったが、感情は偽らざるものであった。
 それに、人を好きになったのだったら、そのきっかけはどうでも良いことだ。
 大事なのは、今、俺が彼女を好いていると言う事実のみ。
 俺は彼女が笑うたびに、心が満たされていくのを感じていた。










「……ありがとう」
 俺は美汐ちゃんから離れ、ゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
 涙は止まっていた。
 悲しみの涙は、今流し終えた。
 だから、ここからは涙ではなく笑顔を彼女に贈りたいと思う。
 涙よりも、笑顔を彼女は喜んでくれる、そう思ったから。
 例え、彼女の中には相沢祐一しか居なくても、俺の心の中は彼女に占められている。
 それで良い、と俺は思った。
「……あなたは強いのですね」
「いや、俺は強くなんかないよ。むしろ弱い。誰よりも弱い」
 一瞬でも、気を抜けば、俺は涙を流してしまうだろう。
 だけど、涙を流すわけにはいかない。
 彼女ためにも、俺のためにも、偽っていた罪のためにも。
「十分強いですよ」
 初めて、俺に向けられる美汐ちゃんの優しげな表情だった。
「北川さん、私の話を聞いてもらえますか?」
「喜んで」
 美汐ちゃんはとても穏やかな表情をして、話し始めた。
「私はあの子が居なくなってから、ずっと孤独に生きてきました。家族とも極力接しようとはせず、友人を作ることもなく、ずっと一人で、です。一人で生きていれば、誰も失わずに済みますからね。でも、そんな私にも声をかけてくれるクラスメイトの人が居ました。その人は入学式の日に私に声を掛け、友達になろうと言ってくれました。もしかしたら、変われるかもしれない、そう思って私は彼女の声に頷きました。ですが、彼女はその次の日から学校に来ることはありませんでした。とても病弱な人で、元から学校に通うことは叶わない人だったらしいです。でも、先日、そのクラスメイトは学校に復帰したんです」
 俺は黙って美汐ちゃんの話を聞く。
「そして、彼女はまた私に友達になろうと言いました。でも、私の心はあの入学式の日からは変わっていて、……いえ、言い訳ですね、怖くなったんです。再び、あの子のように大切な人を失ってしまうのが。ですから、私は彼女に辛らつな言葉を投げかけました。そして、程なくして、彼女はこの世から去ってしまいました。……最低な人間でしょう? 私は最低な人間なんですッ!!」
 美汐ちゃんはその想いと共に、ずっと溜まっていた涙を吐き出していた。
 美汐ちゃんが自分自身を卑下する言葉を吐き捨てている。
 俺は、彼女がその心に溜まった膿を全て吐き出すまで、ただじっと待っていた。
 彼女の声が擦れ、顔が涙でぐしょぐしょになった頃、美汐ちゃんは想いを全て吐き出していた。
「美汐ちゃんは最低な人間なんかじゃないよ」
 俺は出来る限り優しい声を心掛けて、そう言った。
「嘘ですっ!」
「嘘なんかじゃないよ。だって君は──」
 『彼女』の葬式の日、俺は目の前の彼女に出会っていた。
 そのことにようやく、俺は気付いていた。
 そう、あの日、真琴を見つけた日、俺と美汐ちゃんが出会ったのは偶然なんかじゃない。

「栞ちゃんの前で、あんなに泣いていたんだから」

 あの日、誰よりも、美坂とその家族よりも、取り乱して号泣している少女が居た。
 謝罪の言葉を何度も何度も繰り返し、周りの者に慰められても泣き続けていた少女。
 それが美汐ちゃんだった。
 あの時の彼女と、今までの彼女の様子があまりにも違っていたものだから、俺は気付くことが出来なかった。
 だけど、美汐ちゃんがようやく素のままの自分を見せてくれ、俺はようやく気付くことが出来た。
「どう、して……」
 擦れた声で、ようやく彼女はそう言葉にした。
「俺もあの場に居たんだよ。君と一緒で、栞ちゃんは大切な友達だったからね」
「わ、私は……友達なんて……」
「栞ちゃんはとても聡い子だよ。だから、美汐ちゃんの嘘なんて気付いていたんじゃないかな。その優しさに気付いていたから、君の言葉に従ったんじゃないかな? それに彼女はとても優しい子だよ。だから、美汐ちゃんが罪に感じていることだってきっと許してくれる。これは予想じゃなくて、確信だよ」
 それに、自分のためにこんなにも涙を流してくれる子のことを栞ちゃんが嫌っているはずなんてない。
「で、でもっ! 私はっ!」
「それ以上は美汐ちゃんだけでなく、栞ちゃんも侮辱することになるから言わない。良いかい?」
 友達に自分との友情を否定される言葉を言われれば、栞ちゃんが傷ついてしまう。
 同様に美汐ちゃんもね。
「……それじゃ、私はどうすれば……」
「栞ちゃんを忘れないことだよ」
「美坂さんを忘れない……」
「そう。定番だけど、その人ことを誰もが忘れた時、その人は本当の意味で死んでしまうのだと俺は思う。だから、俺たちは覚えていないといけない。その人を本当の意味で死なせないためにも。真琴のことも、君のあの子のことも、栞ちゃんのこともね」
 美汐ちゃんが顔を伏せる。
 静かに彼女は泣いていた。
 今度は俺が彼女を抱きしめる。
 俺が泣いている時に、彼女にされていたように。
「……やっぱり強いですよ、北川さんは」
「……相沢には負けるよ」
「……あなたよりも強くて、美坂さんが愛した人……私もいつか会ってみたいですね」
「……全てが終わったらきっと会えるよ」
「……そう、ですね」

 雪解けの日、俺と美汐ちゃんを少しだけ暖かい風が撫でていった。




















北川潤・天野美汐編 終





















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