彼らは皆、微笑みあっている。
春の訪れを感じさせるような緑の大地の上で。
暖かな日の光の下で。
偽りの無い笑顔を見せている。
本当に幸せだった。
本当に大切だった。
だから。
いつまでも、こんな時間が続けばいい。
そう願った。
でも、現実は変わらない。
だったら、と彼は思う。
かけがえのないこの時を。
穏やかなこの時を。
彼女達と共に。
大切な人達と共に
必死になって。
本当に必死になって。
大切にしていけばいいと。
「真琴、幸せか?」
「…………」
真琴は彼の問い掛けに答えることが出来ない。
それを彼は理解していたから、答えを待たずに続ける。
「俺は幸せだよ」
かみ締めるように彼は繰り返す。
「本当に幸せだよ」
彼は彼女をぎゅっと抱きしめる。
少しだけ、ほんの少しだけ、真琴が嬉しそうな表情を浮かべた。
「…………」
言葉は失われてしまったけど、彼女の気持ちは彼に伝わっている。
それだけで彼の心は満たされていく。
彼は真琴を抱きしめながら呟く。
ありがとう。
そして、ごめんなさい、と。
伝わる想い 第四十三話「雪解け」
Written by kio
三人にとって、この数日間は驚く程早く時間が流れていった。
真琴の熱は依然として下がることは無かったが、彼女が外に出ることを望んでいたので、二人は彼女と共に外へ出た。
季節はまだ冬。
厳しい季節は終わっていない。
それでも、その日はいつもと比べれば随分と穏やかな気候だった。
まるで春が訪れたのでは、と思う人がいても不思議ではないかもしれない。
美汐の提案で、三人はゲームセンターのプリント機で写真を撮った。
それはおもちゃのような写真だったけど、間違いなく彼らの幸せが詰まっていた。
祐一の目には、少しだけ真琴が笑っているように見えた。
「これは真琴の夢だったんです」
美汐が思い出を懐かしむような声でそう呟く。
それは、たった一人の親友にだけ伝えられた真琴の夢だった。
あまりにも些細でありふれているのに、彼女には手の届かなかった夢。
──今、彼女は笑っている。
三人は公園で雪だるまを作った。
それは小さくて今にもとけてしまいそうだったけど、大切な、本当に大切な彼らの想いがこめられていた。
美汐が愛しそうにそれを眺めている。
これは美汐の夢だった。
大切な人と共に掛け替えの無い思い出をつくるという、ずっと昔からの夢。
彼女の夢もまた、手が届きそうでいて、遠く離れたところにあった。
──今、彼女は微笑んでいる。
そして、彼らは最後にここへ辿り着いた。
ここは既に雪解けが始まっている。
真っ白な雪の下から緑の大地が顔を見せていた。
穏やかな風が吹く。
それは春の匂いがした。
ここはものみの丘と呼ばれる場所。
未だ自然に包まれた場所。
そして、始まりであり終わりである場所。
美汐が目を細める。
その瞳は悲しそうであったけど、同時に懐かしいものを見ているようでもあった。
彼女は一度目を瞑る。
美汐だけが足を止めていた。
「……相沢さん、ここから先はお二人で」
感情の見えない声で、美汐が告げる。
既に祐一達は丘の中へと進んでいた。
結果として、美汐と祐一達の距離は離れてしまっている。
「……美汐は?」
祐一はあえて、後ろを振り返らずに彼女へと語りかける。
──祐一の腕の中で、真琴が焦点の定まらない目を彼に向けていた。
「私はここに残ります。──最後はあなたが真琴と共に居てください」
美汐の顔には悲しい色が浮かんでいる。
だけど、それを祐一が気付くことは出来ない。
「それがあなたの責任です」
祐一は長い間、立ち止まっていたが、最後には彼女の言葉に頷き、前へ進み始めた。
美汐はゆっくりとまぶたを開く。
その瞳は二人を見守っているかのような優しさがあった。
丘の中ほど、人二人がなんとか座れるだけの面積、そこだけは雪解けが終わっている。
祐一はそこに腰を下ろす。
抱いていた真琴を自身の膝の上に移して、彼は彼女を抱きしめた。
──彼女を逃がさないように。
──彼女がどこかに行ってしまわないように。
強く、強く抱きしめた。
「真琴……」
祐一は彼女の名前を優しく呼ぶ。
真琴がそれに答えるように祐一の腕を軽く掴んだ。
「真琴…………」
もう一度祐一は彼女の名前を呼ぶ。
たったそれだけのことなのに、彼の想いがそこから溢れるほど滲んでいた
「……まこと……」
祐一は彼女の名前を呼ぶことしか出来ない。
それが彼に出来る唯一のことだったから。
祐一は何度も、何度も、彼女の名前を呼んだ。
心をこめて。
気持ちが伝わるように。
想いが届くように。
強く。
優しく。
かみ締める様に。
「まこと……」
いったい何度目の呼びかけだったのだろうか。
──それは強い想いだった。
「……ゆ……ぅ………い……ち…………」
真琴が彼の名前を呼ぶ。
これは起こるはずのないこと。
言葉を完全に失った今の彼女ではありえないはずのこと。
──祐一の体が震えた。
あまりにも嬉しくて、彼は泣きそうなった。
だが、泣くことは出来ない。
祐一はまた真琴の名前を呼んだ。
──真琴は答えてくれない。
彼女の言葉は完全に失われている。
だから、それは当然のことだった。
だけど、祐一は彼女の声を聞いた。
そして、それは確かにゆういちと言っていた。
彼は思う。
これは奇跡だったのだと。
彼の願いの果てに辿り着いた、たった一つの奇跡なのだと。
いや、と彼は思う。
奇跡はもっと前に起きていた。
彼が彼女と出会えたこと。
それは奇跡以外の何ものであったのだろうか。
祐一はもう一度彼女を抱きしめる。
彼女の温もりが今はこんなにも愛しい。
今、彼女はここに居る。
そして、祐一もここに居る。
最後の瞬間が訪れようとしていた。
だけど、彼らはここに居る。
確かにここに居る。
それだけで、彼らは満足だった。
例え、どんな未来が待っていようと。
例え、どんな悲しみが待っていようと。
その記憶が彼らを慰めてくれる。
その記憶が彼らの心の隙間を埋めてくれる。
ここで彼らは生きていたのだと。
真琴の腕の力がゆるんだ。
祐一の腕からその手が離れる。
祐一はさらに強く彼女を抱きしめようとした。
だけど、それは叶わない。
既に彼女に触れることは出来なかったから。
真琴が消えていく。
真琴が光となっていく。
祐一はそれでも彼女を抱きしめ続けた。
触れることが出来なくても抱きしめ続けた。
彼は必死に真琴の姿を記憶に焼き付けていく。
決して、忘れることのないように。
この記憶が、あの大切な日々と共にあるように。
そして、最後に見た彼女は。
幸せそうに笑っていた。
祐一は真琴が消えてからも、彼女を抱きしめ続けていた。
まだ、彼女の温もりが残っていたから。
それが消えてなくならないようにと。
祐一の元へ美汐が近づいてくる。
彼は振り返らない。
「……終わってしまいましたね」
彼女の声には悲しみと、ある種の後悔が見え隠れしている。
「……本当に命とはあっけないものです」
美汐はあの日のことを思い出していた。
それは決して消えることの無い記憶。
全てが変わってしまった時の記憶。
そして、その中で彼女は、今の彼女と同じ想いをしている。
美汐は一瞬何かを言いかけたが、それは自分の中に仕舞い込んで。
「……お疲れ様でした」
と彼に言った。
祐一は何も言わない。
「……終わったのですよ?」
諭すような、何かを確認するかのような美汐の言葉。
祐一はそれに答えようとはしない。
「ですから……いいのですよ」
今の美汐には彼の心中が痛いほどに分かっている。
だから、彼女は優しく、本当に優しく彼に語り掛けた。
「我慢なんてしなくてもいいのですよ?」
それでも祐一は美汐の言葉に答えない。
彼の気丈な姿に美汐の胸が痛む。
「もう、終わったんです」
──祐一は真琴に伝えることが出来なかった。
──自分の本当の気持ちを。
──偽りの無い自分の気持ちを。
──真琴を愛していたというこの気持ちを。
──でも、それを伝えることは出来なかった。
「もういいんですよ……?」
だって、彼は──。
「泣いたっていいんです。──北川さん」
相沢祐一ではなかったから。
「……っ…………くっ…………」
北川潤は相沢祐一として堪えていたものを、今、吐き出した。
「……ぅ…うあぁあぁぁーーーーーーーっ!!」
沢渡真琴編 終
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