学校が午前授業と言うこともあって、祐一と美汐は真琴の部屋で昼食を採っていた。
別段、変わったところのない風景。
祐一はいつものように真琴の言葉に相槌を打ちながら食事を採っていたし、美汐はそんな二人の様子を愛しそうに眺めていたし、真琴も笑顔で食事を採っている。
本当に自然な光景だった。
ただし、たった一つの違和感を除いて。

「あぅ〜」

真琴は自分の手元を見て、困ったような泣きたいような声を上げていた。

「真琴。……スプーンを使いましょう?」

美汐が優しくそう真琴に語り掛けるが。

「ま、真琴は──箸ぐらい使えるわよっ!」

半分泣きべそになりながら、真琴が頑としてそれを受け入れようとしない。
穏やかなはずの食事風景はいつも彼らにとって辛いものとなる。
真琴は自身に苛立ち。
祐一と美汐は真琴の異質を目の当たりにする。





それは日常に潜む非日常が近づいていることを意味していた。



















伝わる想い 第四十二話「受け入れる勇気」

Written by kio









祐一がそれに気付いたのは、真琴の熱が下がってすぐのことだった。
始めはとにかく違和感があった。
しかし、彼にはそれが何なのか分からない。
美汐はいつも通りの様子だったし、真琴も元気を取り戻してきている。
だから、彼は自分の気のせいだと思うことにした。
それでも、彼は違和感を消せない。

その違和感はそれから程なくして彼の前に姿を現すこととなる。

「美汐〜」

「少し待ってくださいね」

泣きそうな声で真琴が美汐を呼んでいる。
突然のことだったから、祐一には何が起きたのか分からなかった。
真琴と話をしている最中に、彼女はそんな声を上げたのでとにかく彼は焦った。
真琴の体調がまた悪くなったのでは、と想像してしまう。
しかし、それは彼の予想を遙かに上回る形で答えを示した。

「美汐……ちゃん?」

美汐がしゃがんだかと思ったら、真琴がその背にしがみ付いた。

「しっかり、掴まっていてくださいね」

美汐は背に抱えた真琴を安定させるため軽く姿勢を変えた。

「何を、している……?」

祐一は嫌な汗が流れて出てくるのを感じていた。
頭が上手く回っていないのも自覚している。

「真琴はトイレに行きたいそうです」

事も無げに美汐が言う。

「うー、美汐〜!」

真琴が美汐の背中で彼女に不満をぶつける。
やはり彼女もそういうのは恥ずかしいらしい。

「ふふ、失礼しました。──相沢さん、少し待っていてくださいね」

美汐の様子はあまりにもいつもと変わらない。
彼女とは短い付き合いではあったが、祐一はそれを感じ取ることが出来ている。
だから、間違っているのは自分ではないのかと感じてしまう。
それでも、彼の常識がそれを異常だと識別していた。

目の前で何が起きているのか理解出来ていない彼ではあったが、自分が今何をすれば良いのかぐらい分かっている。

「……俺が真琴を背負うよ」

戸惑いは消えない。
昨日まで歩くことの出来ていた彼女の姿を思い出し、彼の表情が一瞬だけ曇る。
それでも、そう口にしていた。

「あなたは女性のそういうものに付き合うのですか……?」

美汐が微かに困惑を浮かべている。

「俺はそこまで連れて行くだけだよ。そこから先は美汐ちゃんにお願いする」

無意識だったが、祐一は真琴に起こった変化を察していた。
その言葉はそれを踏まえた上での発言である。

「……そうですか。それではお願いします」

やはりいつもと変わらない彼女の口調で美汐は答える。

「えっ、美汐?」

今度は真琴が困惑を浮かべている。

「相沢さんの言葉に甘えましょう」

美汐が真琴に話しかける時、誰よりも彼女は優しくなる。
それは必然的に母性を感じさせるもの。
だからだろうか、真琴は美汐の言葉に逆らったことは無い。
今だって、渋々ではあるが美汐の言葉に頷いている。

「……祐一、しゃがんで」

消え入りそうな声だった。

「ああ……」

祐一は真琴が自分の背に掴まれるように腰を落とす。
始め真琴は躊躇していたようだったが、何とか祐一の背に掴まる。



この日から、真琴がこの部屋を出る時にはいつも祐一がおんぶをしている。

そして、祐一は美汐から真琴が人間としての機能を失ってきていることを告げられた。
















真琴が箸を上手く使えないのは仕方の無いことだった。
それでも、真琴はそれを受け入れようとはしない。
例え、足が動かなくても。
例え、五感が狂っていても。
それだけは受け入れようとはしない。
まるで、それが自分を保つ最後の砦だと言う様に。

それでも、終わりの時は来る。
砦が陥落する時が来る。

しかし、それが訪れるのはあまりにも早かった。















その日、真琴は箸を掴むことが完全に出来なくなっていた。
スプーンを渡されてもそれすら掴めない。
結局、食事は美汐が食べさせることになった。

その日、真琴は言葉を失った。
完全に失われているわけではなかったが、残った言葉はあまりにも幼稚だった。
祐一と美汐は真琴の変化を見逃さないように、彼女を見守っている。

その日、真琴は記憶を失った。
彼女が覚えているのはゆういちと言う名だけ。
長い時間をかけて、真琴はみしおと呼ぶことが出来た。



そして、二度目の高熱が真琴を襲った。



「真琴……まことっ……」

祐一が彼女の枕元ですがりつく様にその名を呼んでいた。

「…………」

真琴の意識は今は失われている。
美汐は一時的なものだからまだ安心していても良いと言う。
しかし、意識を取り戻したとしても真琴が言葉を発することは少ない。

「……どうやら落ち着いたようです」

美汐が言うように、真琴は今、穏やかな寝息を立てている。
だが、どうしてもその呼吸音は弱々しい。

「……少しよろしいですか?」

そう言って、美汐が腰を上げる。
祐一は頷いて、それに倣う。
美汐は部屋から出て行った。
祐一は真琴を起こさないように静かに扉を閉める。
大切な話がある時は、いつも彼らは廊下で話をする。
例え、真琴がその話を理解出来ないような状況にあっても、それは変わらない。


「寒いですね」

「ああ……」

美汐の家は古い家らしく廊下に出るのと外に出るのとでは気温に大差が無い。

美汐は祐一の耳に届くぐらいのため息をついた。
実際には小さな音だったのかもしれないが、あまりにも周りが静か過ぎた。

「あなたも察しているでしょうが……真琴は長くありません」

祐一は驚かなかった。
前に彼女から話を聞かされた時に、十分驚いている。
だか、それを受け入れたくないと言う感情はある。

「ですから、……あなたはこれ以上関わらなくてもいいのですよ?」

「……意味が分からない」

「……後のことは私が責任を持ちます。あなたは真琴のことを忘れたって構いません、と言うことです」

「……そんなこと──」

出来るはずがないと続けようとして、それを美汐が止める。

「あなたには覚悟がありますか?」

美汐の瞳は悲しいほどに冷たいものだった。

「あの子を最期まで見届ける覚悟はありますか?」

一時の感情で答えることは許さない。
そう美汐の瞳は言っている。
逃げたとしても、誰もあなたを責めない、そう言っている。





祐一は真琴との日々を少しだけ回想した。



──答えなんて決まっている。





そして。










「もちろんだ」










迷いも無くそう告げていた。





















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