伝わる想い 第三十九話「生きることの意味」

Written by kio









……栞……

暗いここは暗い。
ここはどこ?
私はどうなったの?
確か……私は手首を切ったんだ。
血がドクドク出てきていた。
多少の免疫はあるつもりだったが、さすがにその光景は気持ち悪かった。
その後はどうなった?
湯船に手を入れて……記憶がない。
そこで私の記憶は終わっている。
死んだの?
私は死んだの?

栞っ!!
どこ栞!?
栞はどこに居るの?
逢いたい。
逢わせてよ、栞にっ!
私は死んだんでしょう?
ねぇ、栞。
どこ?
返事をしてよ、栞。
栞。
栞。

しおり……。
シおり…………。

……ああ、そっか……。
私の行き着く先が栞と同じ場所のわけがないわよね。
栞は天国に行って、私は地獄へ。
当然の帰結ね。
ふふ、笑っちゃう。
栞と同じところに逝けると思ってたなんてずうずうしいにも程があるわ。

それにしてもここは暗い。
これが地獄?
何も無いところね。
違う。
見えないだけ。
目で確認できないだけ。
ここは当たり前の世界じゃない。
私の常識が通じるはずがない。

不意に何かが見えた。
何?
誰、あなた?
見えない。
だけど、誰かが居る。
誰?
言葉が発せられない。
栞?
まだ、そんな希望を抱いている自分が嫌になってくる。
誰?
見えない。
まだ、見えない。

えっ?
誰かが私に触れた。
誰?
私はそれを確認しようと、必死に目を開こうとする。
でも、私には目が無いのかもしれない。
ここはそういう世界。
誰?
私は目を開く。
開けないものを開く。
遂にそれは叶うこととなった。

だれ?
まぶしくてよく見えない。
この世界はこんなにもまぶしかったのか。
暗い世界じゃなかったの?


──それはあなたの心よ。


えっ?

より一層、この世界は輝きを増していく。
私の目はそれに耐えられない。
でも、確かに私は見た。

子供?

この世界に居る誰かを。















「大丈夫か?」

「──ごほっ、げほっげほっ……」

声を出そうとして失敗する。
何故か咳が出た。

「無理はしないほうがいい」

なんであなたが居るの?

「手当てが早かったとは言え、手首を切ったんだ。あまり無茶はするなよ」

なんで?
何であなたが居るの?
私は死んだはずじゃなかったの?
それともあなたも死んだの?

私はすがるような目で彼を凝視する。

「……落ち着いたら、説明するさ。だから、少し休んでいろ」

そう言って、彼は私を布団に寝かせる。
ここは私の部屋?
すっかり肌に馴染んでしまっている、私の布団が敷かれている。
よく注意を向けてみると、見慣れた家具ばかりが目に付く。
簡素な部屋だった。
でも、愛着がある。
間違いない、ここは私の部屋だ。

少し考えてみる。
今の私はたぶん冷静だ。
まともな思考が出来るだろう。
私は自殺をしようとした。
これは間違いない。
今、私は私の部屋に居る。
つまり、私は自殺出来なかった。
自殺未遂……になるのだろうか?
彼について考えてみる。
どうしてここに居るのか?
分からない。
彼は何をしたのだろうか?
状況から考えて、私の自殺を止めたのだろう。
治療をしてくれたのも彼で間違いないだろう。
どうして?
理由が無い。
私は彼に殺される理由はあっても、助けられる理由は無い。
保留。
次に考えることはあるだろうか?
……ない。
予想以上に私は今、単純な思考しか出来ていないのかもしれない。
でも、頭の中は冷静だ。
大丈夫。
たぶん大丈夫だ。

「……私はもう大丈夫よ」

今度はまともに話すことが出来た。
私は彼に顔を向ける。
もしかしたら、本当の意味で彼に真正面から向き合うのはこれが初めてだったのかもしれない。
彼の様子に特に変わったところは無い。
遠い昔のように感じている、私達が仲良くしていた時の彼に酷似している。
だから、大丈夫だ。
私は大丈夫だ。


でも、怖かった。


「……そうか。香里、お前は自分が自殺を謀ったことを覚えているか?」

私は頷く。
──怖い。

「間一髪だったよ。手を湯船に入れる前に何とか止めることは出来たんだ」

あの時には既に彼はあの場に居たらしい。
────怖い。

「俺がしたのは応急処置に過ぎないから、後で医者に観てもらった方がいい」

左手首を見つめる。
そこには包帯が巻かれていて、消毒と止血がきちんとされている。
体の調子も悪くない。
完璧な処置に見えた。
──────怖い。

「香里らしくはないと思ったが、玄関の鍵が開いていたんだ。まぁ、そのおかげで最悪のことにはならなかったな」

たぶん、私はそこまで頭が回っていなかった。
ただ、自殺することだけしか考えていなかったから。
────────怖イ。

「なぁ、香里。俺は余計なことをしたと思うか?」

「……いえ……」

あの時の私はたぶん狂っていた。
栞の願いを無視して、死のうとしていたのだから。
だから、本当は死にたく……
──────────こワイ。
……ナカッタ、ハズダ……。
──────────────コわイ。
怖い怖い怖い怖イ怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖イ怖イ怖い怖イ怖イ怖イこわイこわイこワイこワイこワイこワイコワイコワイコわイコワいコワイコワイ…………

「イヤーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

「香里!?」

誰ヨ、アナタ?

「なんなのあなたっ!? あなたは何? どうして私を死なせてくれなかったの? 私は死にたい。死にたいの。ねぇ、殺して。殺して殺して殺シテ」

殺シテ。

「…………」

ソンナ目デ見ナイデヨ。

「栞、逢いたい。栞。栞っ。栞ぃーーーっ! どこ、栞!? どこに居るの? 栞? ねぇ、私を殺してくれるのよね。約束したよね、ワタシ、殺シテクレルッテ……ヤクソク…………」

ヤクソクシタ。
ナノニナンデソンナ目ヲムケルノ?


「……狂った振りか? 香里?」


振リジャナイ、ワタシハクルッテイルノヨ。

「止めろよっ!!」

初メテ、私ハ……彼の怒鳴り声を聞いた。
気が付けば、私は彼に掴みかかっている姿で止まっている。

「いいか、聞けよ香里。別に俺はお前に自殺をするなとは言うつもりはない。結局は本人次第なんだ。いつも俺にどうこう出来るわけが無い」

彼は本当に怒っていた。
私の両肩に彼の手の平が痛いぐらいに押し付けられる。
私はただ彼の言葉に耳を傾けるしかない。

「でもな、お前は栞に何か託されたんじゃないのかっ!? あの手紙を俺は読んでいない。でもな……あいつがどんなことを書くかぐらい分かるんだよっ! あいつがどれだけお前を想っているのか知っているんだよっ!」

胸が痛い。
彼の言葉が胸に響く。

「自分の分まで生きて欲しいって、栞は言わなかったか? 違うのか!? お前は生きなくちゃいけないんだよっ!? ……それが残された人が出来る数少ないことなんだ」

痛い。
言葉が痛い。
あまりにも痛くて、私は涙を滲ませた。

「なぁ、香里」

先ほどまでとは打って変わって、彼の声は穏やかだった。
その言葉があまりも優しく聞こえる。

「自分が死んでしまうと思った時、怖くなかったか? 怖くて震えなかったか?」

覚えている。
無意識に忘れようとしていたが、覚えている。

「俺は怖いと思うよ。どんなに死が見慣れたものになっても、自分が死ぬのは怖いんだ。だってさ、自分がここから居なくなるんだぜ。友達にも会えないし、家族とも会えない。楽しいことも悲しいことも何もかも無くなってしまうんだぜ。──これって、本当に怖いことだと思うよ」

痛い。
心に突き刺さる。
言葉はこんなにも凶器に成りえるものだったの?

「だけどさ、あいつはそれに耐えたんだ。たった一人で。苦しくても、どんなに苦しくてもあいつは誰にも自分の弱いところを見せなかったんだ。凄いことだよ。俺には真似出来ない。……何で、あいつがそこまで出来たんだと思う?」

……気付けなかった。
……この人は私が気付けなかったことを言おうとしている。
そして、それは大切なことだったはずなのに──。

「あいつはな、栞はな、たった一人の大切な人のために笑顔でいたんだよ。自分の苦しみと引き換えにあいつはその人に笑顔を送った」

栞。
何で私は気付けなかったの?
こんなにも簡単だったのに。
こんなにも優しいことなのに。
こんなにも悲しいことなのに。
──何で私は自殺をしようとしたの?
あんなにもあれは痛くて……痛くて……痛くて……泣きたくて。
そして、あれは──

「……怖かった……怖かったのよ…………、血が出てきて、気持ち悪くなって、……自分が死ぬんだなって思った時、死にたくないって思った。生きたいって思った……」

カッターナイフがどうしようもなく怖かった。
血の色がどうしようもなく不気味だった。
水に映った私の顔に息を詰まらせた。

「……手に力なんて始めから入っていなかった。……本当は死ぬ気なんてなかった。自殺したいと思ったけど、したくなかった。……罪がいっぱいあったから、死にたかった」

栞を否定した。
彼の真意に気付かない振りをした。
親友に嘘をつき続けてきた。
最愛の妹を助けることが出来なかった。
私はあらゆるものを奪ってきた。
──私の罪がどこまでも私を追い詰めていった。
気付いていたはずなのに。
私が狂い始めているって、始めから気付いていたのに。
気付いていたから、助けを求めた。
でも、そこに助けはなかった。
だから、簡単な道に逃げた。

「……逃げだと分かっていても……現実は辛かった。……あなたと会うのが怖かった。栞の気持ちが苦しかった……。……私にはもう……分からなかった。……分からなかったのよ…………」

言葉が嗚咽となって、続けることが出来ない。
私は彼の目の前で泣き崩れている。
無様な姿だとは思ったが、どうすることも出来ない。

私の肩に伝わる力が強くなる。
私は微かに彼の方を見た。



「──香里、生きろ」



優しい声だった。
今度は胸に痛くない。
そして、力強い言葉だった。

「罪だと感じるなら生きろ」

彼が真っ直ぐに私の瞳を見ている。

「自殺出来る勇気があるんだったら生きろ」

涙で滲んだ瞳に彼の姿が映る。

「生きて栞の願いを叶えてやって欲しい」

何も怖くなかった。

「俺は残酷なことを言っているのかもしれない」

彼の言葉が私の胸に染み込んでくる。

「生きることが辛いことなのは分かっている」

私は大丈夫だ。

「死んでしまった方が楽だということも知っている」

もう本当に大丈夫だ。

「だけど、生きて欲しい」

涙が止まらない。

「栞の分まで生きていて欲しい」

私の醜い心がとけていく。

「もう誰にも居なくなってもらいたくはないんだ……」

──えっ?

「頼むよ……」

……あいざわくん?

「……どうして……?」

私は彼の顔を正面から見据えている。
だから、すぐに分かった。

「──どうして、あなたが泣いているの?」

彼の瞳から涙が零れている。
これは私のために泣いているの?
その理由が分からない。
見当もつかなかった。

でも、相沢君はいとも簡単にこう言った。

「友達が死ぬのが嫌だからだよ」

「……えっ……?」

私は耳を疑った。
頭の中が真っ白になる。

「当然のことだろ?」

本当に当たり前だと言うように彼は言う。

「……私は……私はあなたに酷いことをしてきたのよっ! それなのに、どうして!?」

真っ白な頭の中で、私が彼にしてきたことだけが浮かんでいる。
それは罪だった。
その罪は大きすぎるから、私は怒鳴ってしまう。

「俺にはそんな覚えはないよ」

「嘘……よ。私があなたにしてきたことは──」

そんな言葉で済まされることじゃない。

「気にしていない」

何故、そんなにも平然としていられるの?
私は罪を犯してきたのよ?

「私を許す、……と言うの?」

声が震えていた。

「許すも許さないも、俺は香里の友達だと思っている。それだけで十分だ。……でもさ、もしお前がそう思っていないのなら、俺のことを友達だと思ってくれれば嬉しい」

駄目よ。
そういう言葉は反則よ。
私は罪を償わなければならないのに。
今、言わなければいけない言葉があるはずなのに。
出てくる言葉は──

「……っ……ぐすっ……お人良し……」

私は相沢君にすがり付いて、幼い子供のように泣きじゃくった。















「相沢君。私はあなたに謝らなければならないわ」

泣き止むまでに本当に長い時間を要してしまった。
普段なら恥ずかしいことだと思うのだろうけど、今はそんな考えは浮かばない。
むしろ、彼の前で泣けて良かったとまで思ってしまう。

「いや、いいよ」

本当にこの人は気軽に私の言葉を否定する。
でも、これだけは譲れない。

「そうはいかないわよ。──あなたには酷いことをし過ぎてしまった。……ごめんなさい。本当にごめんなさい」

いくら謝罪の言葉を並べ立てたところで、私の罪はなくならない。
だけど、けじめはきちんとつけておかないといけない。

そう、これは私の罪に対する償い。

「だから、あなたは私に何をしてもいい。どんな要求にも答えるわ」

あなたが私に死ねと言うなら、私は死ぬ。
あなたが私に地べたを這えと言うなら、私は這う。
あなたが私を求めるなら、私はそれに答える。
今の私にはそれだけの覚悟がある。
どんなことを言われても、私は拒絶しない。

相沢君は真意を伺うように私のことを見つめる。
私は目をそらさない。
それが、彼のきっかけとなったようだった。
相沢君の唇が開かれる。


「……なら」


私の覚悟は出来ている。

彼は、自分の要求は一つだけだと告げると、その望みを言った。










「生きてくれ」


























私は一人栞の部屋の中に居る。
栞のお葬式は先ほど終わったばかりだ。
私は傍らにあったものを大事そうに引き寄せる。
唐突にあの時のことが思い出された。
あの日、私は相沢君に一つの約束をした。
その約束は守るつもりだ。
それが栞への誓いでもある。
でも、私と相沢君が友達として、これからも仲良くしていけるかは正直よく分からない。
私は罪を重ねすぎていたから、彼が受け入れていても私は負い目を感じてしまうだろう。
……でも、それを意識するのはもう少しだけ未来の話。
今は、あの日、相沢君に渡されたものに想いを馳せていたい。
彼が私の家に訪れた本当の理由は、あるものを置いていくためだった。
栞と最後に過ごした公園に忘れ去られてしまった彼女の荷物。
それを彼が見つけて届けてくれたのだ。
もしかしたら、彼がこの家に訪れたのはただの偶然ではないのかもしれない。
栞が駄目な姉に見かねて、自殺を止めに起こしてくれた必然のようにも思える。



そして、私は今を生きている。
この大切な贈り物を抱いて。



その贈り物は栞のスケッチブックに描かれていた。

それは私の似顔絵。

あの日、完成するはずのなかった似顔絵。

私は思う。

この似顔絵はあの時には既に完成していたのではないかと。

毎日、少しずつ、少しずつ、時間をかけて私の似顔絵を描いていた栞。

あまり絵が上手とは言えない彼女だけど、とても心がこもっていて。

どんな名画よりも私には価値があって。

そんな素敵な似顔絵がこのスケッチブックに描かれている。

スケッチブックは少し雪で濡れてしまっていたけど、どの似顔絵も濡れてはいない。

そのスケッチブックの中には何枚にも、何年にもわたる私が存在していて。

一番最後のページには。

彼女が最後に描いた私がいて。

それは、あの幸せな日々の記憶が詰まった似顔絵で。

私はどれだけ栞に想われてきたのかを知った。

だから、私は泣いていいのだと思う。

悲しくて泣いているのではなくて、嬉しくて泣いているのだから栞も文句は言わないだろう。



ねぇ、栞。



少しだけ泣かせてね。







──似顔絵の私は。







──最愛の妹と共に。







──眩いばかりの笑顔を浮かべている。










──そして、そのページには白い手紙がそっと挟まれていた。





















美坂香里編 終





















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