栞が死んだ。

もう彼女が私のことをお姉ちゃんと呼んでくれることはない。

それが死ぬと言うこと?

彼女が私をお姉ちゃんと呼んでくれないだけで、死んだということになるの?

だって、栞はここに居て、ただ眠っているだけなのよ。

明日になったら、私におはようって言ってくれるのよ。

ねぇ、そうよね栞?

答えを求めるように、私は栞の手に触れた。



あれ?



──冷たい。




「……あはっ…………」

思わず笑いが出そうになった。
だって、栞の手が冷たいのよ?
ふふっ、おかしい。

「……っ……くっ……うっ…………」

あんまりおかしくて、お腹を抱えて笑いそう。
ああ、そう言えば、優しい人は手が冷たいのよね。
迷信は信じないほうだけど、こういうのだったら信じても良いかもね。
そう、栞は優しい子。
誰よりも優しい子。
優しい優しい私の妹。
まぁ、私は知っていたけどね。










ねぇ、栞?










だから、私を一人にしないわよね?

















伝わる想い 第三十八話「重ねられた罪」

Written by kio









栞の手がまた冷たくなっている。
気のせいだろうか?
気のせいじゃない。
私が暖めてあげないと。
栞の手を両手で包み込む。
でも、暖まらない。

──こんなことをしてもどうにもならないわよ。

自分の中から声が聞こえた。
その声は私自身。
既に気付いてしまっている私。
私は私であるから、私も気付いている。
でも、私はいつも冷静すぎるから苛立ちを覚えてしまう。
私を否定してしまえば、私は気付かない。
私はいつだってそうしてきた。
だけどもう、気付かない振りに疲れてしまったのかもしれない。
そろそろ認める頃だと思う。

──ああ、理解してしまう。

栞は死んだ。

──死って何よ?

永遠に失われてしまうこと。

──へぇ、なにそれ。

栞がもう動くことはない。
栞が話し出すことはない。
栞が笑顔を向けてくれることはない。
栞と触れ合うことは出来ない。

──あら? 今、触れているわよ。

それは亡骸。

私は知っている。
死んでしまえば全てが終わりだということを。

──終わり……何が……?

栞の全てが。

私は知っている。
栞が死んでしまっていることを。
今まで蓄えてきた知識がそう言っている。

──…………。

私は知っている。
本当に全てが終わってしまっていることを。

そして。

「私の罪を」















気付いてしまえば、早かった。
私は狂ったように泣き続けた。
涙が枯れることなんてないように思えた。
それでも、終わりは来る。
どんな物事にだって終わりは来る。



両親は部屋を出て行った。
誰かと話をしてくると言っていたような気がする。
たぶん、病院の先生あたりだろう。
死ねば全てが作業という輪の中に巻き込まれて、処理されていく。
そして、墓に入ってしまえば死人は記憶の中にだけ留まる存在となる。
ここに居る栞だって、違う物質に変化させられてその結末に辿り着く。
その一段階目に両親は取り掛かろうとしている。



それを遠い出来事のようにしか思えない。
私はただの第三者で、傍観者。
自分をテレビのドラマを眺めている視聴者のような存在にしか思えない。
それでも、その遠い出来事が終わってから私はひどく心を痛めることだろう。
間違いない。
ただ、それを理解していても今の私は何の感情も浮かんでこない。
涙も止まっている。
虚無。
それが相応しい心境だろうか。
考えることも止めてしまっている。
冷たくなりすぎた彼女に触れることもない。
私はただこの部屋に居るだけだった。
栞が最後を迎えた、この白い病室に居るだけだった。















どれだけの時間が経ったのだろうか。
両親が戻ってきていないことを考えると、それほど経ってはいないのだろう。

カツン、カツン

誰かがこの部屋に近づいてきている。

──ああ、そっか。

私は理解していた。
誰が来るのかを。

もうほとんど確信にも近い感覚。
足音が止まる。
一瞬の間を空けて、ドアが開かれた。
私は顔を上げない。
誰がそこに居るのかを知っているから。
ただ、言葉だけで彼を迎え入れる。

「……栞が死んだわ」

この言葉を口にした瞬間、私の感情が戻ってきたように思う。
うるさいぐらいに心臓が鳴り続けている。

「……そうか」

彼の言葉からは感情を感じることは出来ない。

「──あの子、最期まで笑っていたわ」

声が震えた。

「痛くて辛いはずなのに、……笑顔なんて見せれるはずなんてないのに……笑っていたの」

鮮明に栞の最後の姿がよみがえっていく。
栞は笑顔だった。
本当に最後の最期まで笑顔だった。
苦しげな声を漏らしても、笑顔で在り続けることは忘れなかった。
まるで、私に大丈夫だと言っているように。
その笑顔が悲しかった。
その笑顔が苦しかった。
自分が代われるなら代わってあげたかった。
苦しむのは私がいい。
死ぬのは私がいい。
栞はそんな思いをしなくてもいい。
なのに、現実は……。

「ねぇ、私は最低の姉よ。あの子が苦しんでいるときに何も出来なかった」

自分は無力だ。
気付いた時には、栞は死んでいた。
呆気なく、本当に呆気なく。

「ただ泣きながらあの子の名前を呼んでいただけ」

自分を殺したくなった。
何も出来ない自分を殺したくなった。

「……学校でどんなに秀才と言われていようが、こんな時に何も出来なければ、そんなのに意味なんてないっ!」

私は無力。
私に存在意義なんてない。


あれ?


何で私は生きているの?

「──あはははっ!!」

生きる意味なんてないただのクズね、私は。

「滑稽でしょう、相沢君。あなたのことを散々、虚仮にしてきた私がこんな惨めな結末を迎えるなんて」

惨め、本当に惨め。
生きる意味のない私が生きていることが惨め。
惨めな私に付き合ってしまったから、栞は不幸だった?
ああ、そうだったんだ。
私が栞を不幸にしてしまったのね。
きっと、私ではなく彼だったら──。

「……そうね、あの時、あなたにあの子を殺してもらえばもっと幸せだったかもね」

それがどうしようもなく正しいことだったように思えた。
もし過去に戻れるなら、戻れるとしたら、彼にあの子を殺してもらわなくちゃ。
私は本当にバカな選択をしてしまった。

「ほら、相沢君、笑ってもいいのよ。あなたにはそうする権利があるわ」

私は正しいあなたを蔑み続けてきた。
その罪の代償を私は払わなければならない。

「──ふふふふっ、私なんて栞には不必要な存在だったのよ。本当に必要だったのはあなた。馬鹿よね、私。本当に馬鹿よね……」

「──本当にそう思っているのか?」

無機質な声だった。

「栞が本当におまえのことを必要ないと思っていたのか? 本当に俺に殺された方が幸せだったのか?」

感情の篭められていない声だった。
それなのに、どこまでも深い怒りの感情を感じてしまう。

「いい加減にしろっ! おまえにだってそんなことは分かっているはずだろう」

無機質なのに、感情が篭っている。

「でっ、でも、私がいなければ、栞は、栞は──」

「自分を責めるのはそこまでにしておけ。栞の死が汚れる」

言葉を続けることが出来ない。
彼の言葉にはそうさせる力があった。

「栞は最期まで笑顔だったのだろう? だったらおまえは胸を張って良いんだ。香里がいたからこそ栞は笑顔でいれた。笑顔を与えていたのは間違いなく香里なんだ」

何故、あなたがそれを知っているの?
疑問が浮かぶ。

「──栞は感謝しているよ、大切なお姉ちゃんに」

「…………」

違和感。
どうしてこの人は知っているの?
あなたは栞じゃないのに、どうしてその気持ちが分かるの?
疑問が疑問を呼ぶ。
あなたは誰?
誰なの!?
あなたは相沢祐一でしょう!?
違和感。
相沢祐一なのに、この人は美坂栞の気持ちを知っている。
姉だから分かる。
この人の言葉は栞のそれと同じだ。
どうして?
私は自分の体を抱きかかえる。
震えていた。
どうして?
違和感が感情を支配する。
感情?
どんな感情?
分からない。
分かっている。
理解している。
分からない。

ねぇ。

私のこの感情は何なのっ!?



──恐怖だった。



私はあなたを知らない。
私の知っている相沢祐一はあなたじゃない。
じゃあ、何なの?
……理解してしまった。
簡単な答えだった。
この人は私の罪の塊。
罪が私を殺す。
理解しなければ良かった。
でも、理解して良かった。
栞を見つめる。
とても安らかだった。

「──ごめんね、栞」

その言葉は一つの決意だった。
それを合図に彼も動き出す。

「香里」

私は彼を正面から見据える。
変わりない彼の姿は、あまりにも彼に相応しくなかった。
そして、それが彼を相沢祐一と認識させない。





「──手紙を預かっています」





白い便箋が私に手渡された。

「……これは何?」

真っ白な便箋。
それはあまりにも白すぎて、この部屋の白さに馴染んでいた。

「…………」

彼からの答えはない。
ただ私を見つめている。
無言でその便箋を開けるように促しているのだろうか?
私は丁寧に便箋を開いていく。
そこには真っ白な手紙が収められていた。



お姉ちゃんへ



私は息を呑んだと思う。



こんにちは。あれ? こんばんはなのかな。



それは栞からの手紙だった。



いざ手紙を書くとなると何を書けばいいのか分かりませんね。



私は彼を見た。
黙って私を見つめている。
手紙に視線を戻す。



私は死んでしまいました。でも、覚悟はあったので大丈夫です。



「……嘘よ……」

覚悟をしたぐらいで大丈夫なはずがない。



お姉ちゃん、お願いがあります。聞いてくれますか?



手紙の中でも栞はどこまでも栞らしく謙虚だった。



私の分までお姉ちゃんは生きてください。それ以上は私は何も望みません。



……難しいお願いね、栞。



でも、お姉ちゃんだったら大丈夫ですよね? だって、素敵なお友達が傍に居ますから。
北川さん、名雪さん、そして、祐一さんです。皆さん、本当に良い人です。
私も安心できます。あっ、祐一さんとは仲直りしてくださいね。喧嘩はよくありません。
それに私も居ないですから、仲直り出来るはずです。




…………。



最後になりますが、お姉ちゃん、私は幸せでした。お姉ちゃんと過ごせた日々が、お友達と過ごせた日々が、お父さんとお母さんと過ごせた日々が本当に幸せでした。
……書きたいことはもっといっぱいあったはずなのにうかびません。でも、私が伝えたいことは伝えられたと思います。
お姉ちゃん、私はずっと見守っています。だから、私の分まで生きてください。
──また逢える日が遠い日であることを祈って。


美坂栞





手紙を便箋の中に戻す。
視線を上げると、彼が部屋から出て行こうとしていた。

「待って」

彼が足を止める。

「私はどうすればいいの?」

彼ならその答えを持っている。
そんな気がした。

「……自分で考えるしかない。俺は香里ではないんだ」

彼はやはり相沢祐一でもあった。
今、目の前に居る彼は相沢祐一だと認識することが出来る。

「でも、栞がお前に何かを望んでいたのなら、それを叶えてやってくれ」

再び彼は歩き出す。
今度は留めなかった。
また二人となった部屋の中で私は考える。
答えは彼に質問する前から出ていた。
だから、その答えは揺るぐことはない。
なのに、何故今私は考えて、彼に質問をしたのだろうか?
意味なんてない。
分かりきっていることだ。
私は立ち上がり、出口へと向かう。
そして、最後に栞の方へと振り向いた。

「ごめんね、栞」















自宅の浴室。
手には栞の部屋にあったカッターナイフ。
湯船は張られている。

「……はぁ……ふぅ……」

息苦しい。
動機がうるさい。
左手首を見つめる。
動脈を切って、湯船に浸す。
これからの行動を頭の中で繰り返す。
単純なことだ。
簡単すぎる。
私は左手首にカッターの刃を当てる。

「……ふぅ……」

湯船は水で、季節は冬だというのに汗が吹き出てくる。
私は一気に刃を引いた。

「つぅ……」

手首に軽く傷が付く。
動脈は切れていないようだ。
もう一度。
上手くいかない。
手首に当てて、引く。
また薄い傷が付いただけだ。
そうしているうちに、左手首には無数の傷が付けられていく。
だけど、そのどれもが決定的な傷とはならない。
視界が揺らいだ。
このまま湯船に手を入れても良いのではないか?
いや、失敗する。
もう一度カッターの刃を左手首に当てた。
頭がぼーっとする。
今度は今までよりも力を込めて、刃を引く。

ズッ

嫌な音がしたように感じた。
目の前が暗くなっていく。
血が溢れ出てくる。
成功したのだろうか?
視界が揺らいでいる。
体の力が抜けていく。
気持ち悪い。
意識が失われていく。
朦朧としながらも私は左手を湯船に入れた。





「……ごめんね…………しお……り…………」

それは謝罪の言葉だった。





















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