咳が止まらない。
音が漏れないように手を口に当ててはいるが、気休め程度でしかない。
それでも彼女の努力が通じたのか、隣室に居る彼女の姉には気づかれていないようだった。

いったいどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
彼女にはそれが永遠に近いものに感じられた。
──ようやく咳が止む。

「……もう、限界ですね」

これで何度目の発作になるのだろうか。
彼女は既に覚えていないぐらい、それを経験した。
そして、数日前から発作の起こる頻度が異常なぐらい増加してしまっている。
栞は震えの止まらない自身を見下ろす。
先ほどまでの激痛が嘘のように消えている。
意識もずっとクリアになっている。
それでも、震えは止まらない。
これが発作による作用なのか。
それとも、死を恐れてのことなのか。
彼女には判断することが出来なかった。


──ただ、一つだけ分かることがある。


「私は、死ぬ」

口に出してみて、なんと自然なことだろうと彼女は思う。
──震えは止まらない。
もはや、彼女は受け入れている。
──震えは止まらない。
もう、自分には思い残すことがないから。
心の中で彼女は呟く。
──震えは止まらない。
だから、彼女は旅立てる。
──震えは止まらない。
この世界ではないどこかに。

彼女は自身の心が穏やかであることを認めている。

だけど、同時に疑問も浮かぶ。

「……あれ? 変だな──」

視界がぼやけていた。

「どうして? 私は大丈夫なはずなのに……」


──こんなにも震えが止まらないのだろう?


彼女は少し考え、その原因を発作の影響だと決めつけた。

















伝わる想い 第三十七話「一つの結末」

Written by kio









朝の通学路、私はいつものように栞と一緒に学校へ向かっていた。
少し早めに家を出ているためか、他の生徒を見ることは少なかった。
やっぱり、こう寒いと一分一秒でも長く家に居たいと思ってしまうのだろうか。
まぁ、私は栞が近くに居ればどうでもいいけれどね。

「お・ね・え・ちゃんっ!」

突然、栞が私の腕に抱きついてくる。
何か良いことがあったのか、栞は朝からずっとこの調子だ。
にこにこ
栞が笑っていると、私も自然に笑顔になる。

「お姉ちゃ〜ん」

甘えた口調で栞が私を呼ぶ。
栞に抱きつかれている方の腕が、さらにぎゅっと締め付けられる。

「栞、このままじゃ私、歩けないわよ」

呆れた口調を演じるが、その実、私はこのままでもいいかな、などと思ってしまった。

「良いではないか、良いではないか……です」

あなたはどこの悪代官よ。
なんとなく私にもいたずら心が沸いてくる。

「栞、前から思っていたけど」

わざと沈痛な含みを持たせて私は告げる。

「もう少しボリュームが欲しいところね」

栞はきょとんとした顔をしていた。
私が何を言っているのか理解したのか、彼女の顔が見る見る赤くなっていく。

「うー、お姉ちゃんっ!」

うめき声を上げながら、怒鳴る栞。
そんなところも可愛いと思うわよ、私は。

「本当のことよ」

しれっと告げる。

「そんなこと言う人は嫌いですっ」

プイと顔を私から背ける。
それでも栞は私から離れようとはしない。
『確かにお姉ちゃんに比べれば、そのボリューム足りませんけど』とか、『はっ、もしかしなくても、わたしは標準以下なんですか』とか、ぶつぶつと栞は独り言を呟いている。
それを見ながら、微笑ましく感じる私は変なのだろうか。
いや、変でもなんでもいい。
こんなありふれた、それでいて、幸せな日々が続くなら。










いつもの昼休み。
以前よりは量を減らした重箱を、いつもの顔ぶれで処理をする。
減らしたと言ってもあの量は処理という言葉がぴったりだろう。
栞はもちろんのこと、調子に乗って料理を作りすぎてしまう私も悪いのだろうが。
でも、栞が喜んでいるのだからこれは不問。
誰がなんと言おうと不問。
たとえ、毎回の犠牲者である北川君が文句をつけてきても不問。
むしろ、彼なら殴るわ。

「実はですね、今日はデザートも作ってきたんですよ」

それは初耳だった。
でも、小型のクーラーボックスを持参していたことから、なんとなく予想はついていたのだけど。

「はい、バニラアイスです。ちゃんとした手作りですよ」

「わぁ、美味しそうだね、栞ちゃん」

名雪、美味しそうなのは栞じゃないわよ。
……って当たり前よね。
もちろん、アイスを指しての言葉よね。
思わず、心の中で自分につっこんでしまう。

皆の前に自家製バニラアイスが並べられる。

「うぷっ、……頂きます」

北川君、あなた男ね。
お腹の中がこれほどにないぐらい一杯だろうに、それでもアイスに手をつける彼には涙を誘うものがある。

「美味しいっ」

名雪の顔が幸せに溢れている。
私もそのアイスを食べてみる。
うん、美味しい。
アイスを作るのは実はそんなに難しいことではない。
しかし、美味しいアイスを作るためには、それなりの材料とちょっとしたコツが必要だったりする。
たぶん、このアイスを作るために何度も栞は練習を重ねたことだろう。
私と名雪はあっという間にアイスをたいらげた。
栞は言わんとも、と言ったところだろう。

「美味でした」

北川君もどこか満足げにスプーンを置く。
いつも通りの昼食はたった一品のデザートにより、さらに幸せな時間になったと思う。
それが純粋に嬉しかった。

「あの、名雪さん、北川さん」

いつもの笑顔を浮かべて、栞は名雪と北川君に向き直る。
元から栞の対面に彼女たちは座っていたから、姿勢を正すと言った方が正しい表現だろうか。

「今まで、ありがとうございました」

深々と栞は頭を下げた。

「えっ?」

私は知らずに声を上げていた。
今まで、ありがとうございました?
何を言っているの?
名雪と北川君を見る。
二人の表情はいつの間にか真剣なものに変わっていた。

「いや、お礼を言いたいのは俺のほうだよ。栞ちゃん、ありがとう。本当にありがとう」

北川君が今まで見たことのないぐらい、丁寧に頭を下げていた。

「栞ちゃん……大好きだよ」

名雪が栞に抱きついていた。
それは古くからの親友に向けるような優しい抱擁だった。

「……ありがとうございます。北川さん、名雪さん。私はお二人に出会えて本当に幸せでした」

何を言っているのよ?
なんでそんなに真剣な顔をしているのよ、北川くん?
なんで涙をにじませているのよ、名雪?


──これじゃあ、まるでお別れみたいじゃない?










気がつけば、私は北川君と名雪と共に教室に居た。
いや、もう午後の授業は始まっていた。
頭の中がごちゃごちゃしている。
栞が何を言っていたのか理解できない。
──でも、理解できる。
北川君がどうして真剣な顔をしていたのか理解できない。
──でも、理解してしまう。
名雪がどうして涙をにじませていたのか理解できない。
──でも、理解が追いついてしまう。
授業など私は聞いていない。
頭の中で思い出されるのは、先ほどの昼休みのことだけ。
どうしても、冷静になれない。
どうして、ここまで自分は混乱しているのだろう?
私は答えを持っていない。
──でも、私は答えを持っている。

そう、……なのだ。
私は常に矛盾している。
まるで私が二人居るように正反対の思考が存在してしまう。
でも、私は一人だ。
たぶん、これが自己との葛藤。
だから、私は……。
私は……。
これ以上、気付いてはいけない。
気付いてしまうと、美坂香里は壊れてしまう。
周りを見渡す。
教師の姿はもうなかった。
いつの間にか授業は終わり、放課後が訪れていた。










私は名雪や北川君の声を背中に受けながら、走り出していた。
いつもは友達と一緒に下校する栞。
それを微笑ましく思っていた自分。
でも、今は、今だけはそれを見守っている傍観者であってはならない。
私はただ足を動かす。
少しでも早く栞に会うために。
栞の教室の前に辿り着く。
そして、栞の姿はすぐに見つけることが出来た。

「うん、バイバイ」

栞は手を振って、友人に別れを告げていた。
それは何の変哲もない彼女の習慣。
だけど、栞の友人達は涙を浮かべていた。
それだけで、このありふれた光景は永遠の別れを示す儀式となる。

「あっ、お姉ちゃん」

教室から栞が出てくる。
彼女は涙を流してはいなかった。
それどころか、いつものあの笑顔を浮かべていた。

「今、呼びに行こうと思っていたんですよ」

どうしてこんな風に笑えるのだろう?
唐突にそんな疑問が生まれた。

「一緒に帰りましょう。お姉ちゃん」

私は何も言わず、その言葉に頷いた。










学校を出てから、私は一言も言葉を発していない。
栞も私のそんな様子を察してか、あまり言葉をかけてこようとはしなかった。

いつもとは少し違う帰宅の途。
そして、気付く。
栞がどこを目指して歩いているのかを。






私達は公園に訪れていた。
あの思い出の──。

「お姉ちゃん、覚えていますか?」

愛しい妹の声が聞こえる。

「ここで私は初めて、お姉ちゃんの似顔絵を描いたんですよ」

ええ、覚えているわよ。

「あまり上手には描けなかった似顔絵だったけど、お姉ちゃんは文句も言わずに喜んでくれました。……本当に嬉しかったなぁ」

当たり前でしょう。
あなたからの初めてのプレゼントなのよ。
喜ばない、姉なんて姉じゃないのよ。

「お姉ちゃん、また似顔絵を描いてもいいですか?」

ええ、もちろんよ。
これからはいつでも描いてもらって構わないわよ。

「実はですね、今日はこんなものを用意してきたんですよ」

あら、スケッチブック持参だったのね。
……ふふっ、懐かしいわね。それをプレゼントしたのは随分昔だったというのに、栞は物持ちが良いわね。

「お姉ちゃん、描きますよ?」

ええ。
出来れば美人に描いてね。

「──お姉ちゃん」

え? 何かしら?

「笑顔でいてください」

変なことを言うわね。
もちろん、今だって笑顔よ。

「お姉ちゃんに、そんな……泣き顔なんて似合いませんから」

泣いている?
誰が?

「ほら、お姉ちゃん、笑ってください」

笑っているわよ。



私は頬に手を当てる。

「──えっ?」

涙?

「私はお姉ちゃんの笑顔が見たいです」

私は笑っていたはずなのに。
どうして?
どうして、涙が?

「うっ……っ……うぅ……」

嗚咽が漏れた。
どうして?
だから、どうしてよっ!?


──どうして、私は泣き崩れてなんているのよっ!?


「お姉ちゃん……」

笑わなきゃ、笑わないと栞が心配してしまう。

ふわっ

誰かの温もりが私を包み込む。

「お姉ちゃん、大好きです」

その言葉を聞いた時、本当に涙が止まらなくなってしまった。



随分時間が流れたように感じられた。
実際には数分も経っていなかっただろうが、私にはそう感じられた。
ようやく私は冷静を取り戻す。



──でも、この時には全てが終わっていた。










私と両親との間には深い隔たりがあった。
それは自然なことだったのかもしれない。
親としては病に冒された末娘がいれば、そちらを優先するのは間違っていない。
加えて、私はとびっきりの優等生だった。
親はそれを知っていたし、私も自覚していた。
だから、両親が妹に構うのは仕方がないと自分に言い聞かせ続けてきた。
実際に、それで私達親子は何とか上手くやってこれたのだ。
ただ、その弊害として私と両親との間が極端に離れてしまっただけ。
それを私は後悔もしていないし、寂しさを感じることはなかった。
この頃には既に私は大人だったから。
それでも、ここに原因を求めるとしたら、どうしても栞が原因となってしまうのだろう。
私と両親との間に深い溝を作ったのは栞。
もしかしたら、無意識の間に私はそれで栞を責めていたのかもしれない。
別にどうでもいいことだった筈なのに。
程なくして、私と栞との間にも溝が出来た。
それは数年間続くことになる。

でも、ある時突然、私と栞の間の溝が取り除かれることとなる。
そして、私と両親との間にも変化が訪れることになる。
普段は食事を共にすることがほとんどなかった私達四人の家族が互いに顔を合わせて食事をしてしまった。
これは私にとってはありえないはずの光景だった。
でも、ありえてしまった。
しかも、それが日常となってしまったのだ。
私と両親との間の溝が薄くなっていくのも当然だろう。
つまり、私達家族に笑顔が戻ったとでも言えば良いのだろうか?
その原因になったのも、栞。
結局は、私達家族は栞を中心に動いていたのだ。











栞が公園で倒れてから、すぐに私は彼女を病院に運んだ。
正直、その時のことはあまり覚えていない。
ただ、無我夢中だった。

気がつけば、私は栞の病室の中に居た。
そして、家族の全員が揃っていた。
あの時から始まった私達家族がここに居た。

「栞っ、しおりっ!!」

気がついた時には、既に私は叫んでいた。
冷静さの欠片もない。
もはや自分の声は擦れていて、きちんと声になっているのかもあやしかった。





『……姉ちゃん、私、今笑っていますか?』

そんな声が聞こえたような気がした。
だから、私は心の中でそれに答えた。

『良かったです。私笑っているんですね』

たぶん、私が作り上げた幻聴。
これは白昼夢。
その幻の中で、私は一つの結末を見届けていた。

「……栞……」

私はその幻の中で涙を流していた。
そして、意識は現実へと還る。





変な管が栞の体を取り巻いている。
栞の白い顔がさらに白くなっている。
清潔すぎるベットの上に栞が居る。
そんな奇妙な映像が私の心を焦燥に駆っている。

そう言えば、誰かが死とはあっけないものだと言っていたような気がする。
ええ、確かにその通りだと思うわ。

「……しおり……」

普段はあまり口を開かない父の声が聞こえた。
そして、母の泣き崩れる音も聞こえた。

「──しおり……?」

本当に死の瞬間とはあっけないものだと思う。
どこか冷静な部分がそう感想を述べていた。

「しおりっ────────!!」

無機質な機械がその結末を物語っていた。





















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