伝わる想い 第三十六話「さよなら」

Written by kio









いつもの放課後だった。
少なくとも相沢祐一はそう考えていた。
ここ数日で習慣になりつつある踊りの練習に一段落がつき、休憩に入る。
普段ならば、この少し広めの階段の踊り場には、ここに居る彼ら以外の人間が近寄ることはない。
しかし、誰かの足音が静かに近づいてきていることに祐一は気付く。
彼は踊りの練習を続けている二人の女性を見る。
日に日に上達していく動作。
目的に向かって一所懸命なその様子。
いつも通りの優雅な踊り。
そんな二人の練習の邪魔をする理由にはならないと判断して、祐一は口をつむぐ。
ただ視線だけは音のする階下へと向けていた。

すぐ近くに足音が聞こえた。
誰かが階段を上り、この踊り場へと姿を現す。
そして、祐一の瞳がその姿を映した。

微かに彼は息を呑む。

「……どうしてだ?」

搾り出すような声で、祐一は疑問の言葉を浮かべていた。
彼の目の前には一人の少女。

「お久しぶりです。祐一さん」

あの時から変わることのない少女の穏やかさ。
それは祐一の記憶の中にある彼女の姿と重なっていた。

「お知り合いですか?」

栗色の髪の女性が祐一に近づいてきて、訊ねる。
彼女は先ほどまで踊りの練習を続けていた女性の一人であった。

「…………」

祐一は無言で頷く。
そこにある感情を見抜くことは難しい。

「そうなのですか。祐一さんのお知り合いの方となれば、あいさつをしなければいけませんね。私は倉田佐祐理と言います。こっちは親友の舞。よろしくお願いしますね」

佐祐理が少女に向かって、ペコリと頭を下げる。
それに続いて、いつの間にか佐祐理の隣に居た長い黒髪の女性も軽く会釈をする。

「私は美坂栞と言います。こちらこそよろしくお願いします」

栞も丁寧に頭を下げる。

「それで、祐一さんに何か御用ですか?」

にこにこと笑みを浮かべながら佐祐理が訊ねる。
しかし、その笑みは、彼女特有の偽りの笑顔──佐祐理が含ませた微かな棘──であった。

「今日は祐一さんとお話がしたくて来ました」

栞のその落ち着いた話し方もまた、祐一の記憶のものと重なる。
それは、栞が佐祐理の意図に気付こうと気付くまいとも変わらないだろう。

佐祐理は何かを探るように、栞の瞳をじっと見つめる。
栞も反らすことなく、相手の瞳をまっすぐに見る。
一瞬の静寂。
佐祐理は納得したのか、一度『うんっ』と頷き、舞の方に向き直る。

「ね、舞。のどが渇いたよね。食堂に行って何か飲んでこよっか」

舞は黙ってそれに頷き、佐祐理の後について行く。










二人が踊り場から去り、祐一と栞だけが残される形となる。
もちろん、それは佐祐理と舞による故意的なものではあるが。

二人が完全に去ったことを確認して、祐一はゆっくりと口を開く。

「俺は……、お前を突き放したはずだ。それなのにどうして……」

「私は逃げていたんです」

迷うことのない栞の言葉。
しかし、それは祐一の質問に対する答えではなかった。
おそらくは彼女の独白。
栞は続ける。

「祐一さんの優しさに甘えて、私は私のことしか考えていませんでした」

綴るような彼女の言葉に、祐一は再度同じ質問を繰り返しはしなかった。

「それでいい。お前は自分のことだけを考えていれば良いんだ。だから、俺のような奴には構うなっ」

祐一の言葉に時折感情が込もるが、彼はそれを意図して抑えつけているようだった。
あくまでも彼は無機質な感情を見せようとしているのかもしれない。

「私はまだ謝っていません」

静かだが訴えるような声。
それは栞の強い想い。

「誰に謝るって言うんだよ。俺にか? そんなことされる筋合いはないはずだ」

相沢祐一と言う人間を知っていればいるほど、疑いたくなる頑なな祐一の様子。
それでも、栞は動揺を浮かべることなく、自身の気持ちを伝えていく。

「ありますっ。私はあの時、祐一さんのことを信じることが出来ませんでした」

「言っている意味が分からない」

栞の言葉には強い想いが、祐一の言葉には頑なな拒絶が、それぞれに込められていた。
想いは一方が拒絶する限り伝わらない。
しかし、伝えようとするしか想いを伝える方法はない。
それを栞は知っていた。

「あの時の祐一さんの言葉は全てが偽りでした。私とお姉ちゃんが姉妹に戻るために行なった、悲しい演技。それに私は気付いていたんです」

栞が祐一に訴えかける。
そして、言葉以上にそこに込められた感情を伝えようとする。

「勝手な思い込みだ。俺はそんな善人なんかじゃない」

あくまでも祐一はその感情に気付かないふりをする。
それが彼の選んだ道だから。

「もう自分を偽るのは止めてください。お願いですから」

「……あの時の言葉は俺の本心だ」

栞のせつなる願いは祐一の冷たい言葉に消される。

「…………」

「その時に言わなかったか? 俺はお前のことが嫌いだと」

祐一自身を患っていく棘のような言葉。
しかし、止まらない。

「だから、お前と話なんかしたくないんだよ!」

その言葉を受けながらも栞は思う。
どうして、私以上にあなたの方が辛そうなのですか、と。

「……それは本心ですか?」

「当たり前だ」

迷いはないが、偽りのある言葉。

「なら、……それで良いです」

祐一の言葉に迷いがないのは、栞と対面する今日のような日を事前に想定していたから。
だけど、彼の偽りは美坂栞を騙せるほどのものではなかった。
栞は自分の死を誰よりも覚悟している。
どこまで自分が生きれるのかを知っている。
だからこそ、彼女はどんな同世代の人間よりも遥かに世界を達観した目で見つめていた。
彼女の前で嘘は通じない。
通じたとしてもほんのひと時。
偽りのままで貫くことは出来ない。

「でも、謝らせてください」

偽りと知っていながらも栞がそれを否定しなかったのは、祐一の強い想いが感じられたから。
そして、それ以上に彼女には引けない理由があったから。

「何度も言わせるな。お前と話しはしたくない」

「譲れません。これだけは譲れないんです」

どこまでも純粋で強い想い。
想いはその強さだけ相手に伝わる。
そうでなければならない、と彼女は信じている。

「話はしなくても良いです。私が一方的に話しますから。ですから、少しで良いです、私に時間をください」

「……勝手にしてくれ」

ほんの少しだが、きっかけが出来た。
それは想いが伝わったからこそ、生まれた機会。

栞は自身の言葉でその想いを語りだした。

「あの日、私とお姉ちゃんは姉妹に戻ることが出来ました。たぶん、祐一さんが居なければそれが叶うことなんてなかったと思います。本当に感謝しています」

栞は深く祐一に対して頭を下げる。
それが彼女の知る限り、最大の礼の表し方であった。

「でも、私、馬鹿です。そこまでしてくれた祐一さんのことを信じられませんでした。私とお姉ちゃんが元通りになるためには、決定的なきっかけが足りなかった。だから、祐一さんは自分を偽ってまで私達にきっかけを与えてくれました。それなのに、私はそれを真に受けて、祐一さんを避けていたんです」

栞を責め苛んでいたあの日の出来事。

「最悪ですよね、私」

それはある種の自己嫌悪に近い感情なのかもしれない。

「だから、許してくださいとは言いません。ただ、これだけは言わないといけないんです」

栞は謝るだけで許されるなんて虫の良い話を信じていない。
それでも彼女は謝る以外に謝罪が出来る方法を持っていなかった。

「ごめんなさい、本当に……ごめんなさい」

感情が高まりすぎたのか、栞は涙を流していた。
頭を下げながら、涙を流していた。

「謝られる筋合いはないと言ったはずだ」

そんな栞の姿を見ても、祐一の態度は頑なに変わることなかった。

「それとも何か? お前を殺したいと言った、この俺を許せると言うのか?」

自嘲気味に祐一は言葉を放つ。

「はい」

「……っ!?」

あまりにもあっさりとした栞の返答。
それに祐一は強い戸惑いと驚きを覚える。

栞は涙を拭うことなく、口を開く。

「初めて出会ったときに祐一さんは言いました」

ほんの少し過去を懐かしむような目をして栞は続ける。

「祐一さんは私のような人を見てきたんですよね」

祐一にとって予期しなかった言葉。
あの時の栞の様子から、彼女がそれを覚えているとは思っていなかったのだ。

「時には誰かに殺してもらう方が幸せだと言うことを知っているのですよね」

優しく話しかけるような口調で栞は言葉を紡いでいく。

「たぶん、それは正しいことなのかもしれません」

栞自身、人を殺すことを肯定しているわけではない。
しかし、時には人の情で誰かを殺してしまうこともあるということを彼女は知っていた。
そして、死を望む者がいることも。

「タイムリミットが近づいている私には分かるような気がします」

気丈に生きてきた彼女ではあったが、それを貫くことが出来なくなりそうになる時がある。
少し前から彼女の体は明らかな変調を訴えていた。
次第に強くなっていく耐え難いほどの痛み、それが彼女の体を病んでいる。
そして、その痛みのたびに彼女は思うのだ。
誰か私を殺して、と。

「それでも、私は今の生き方を貫きます」

それが彼女の決意だった。
ほんの少しでも長く生きる。
それは難しいことなのかもしれない。
だけど、彼女は生きたいと願った。
大切な人達がいるから。
その人達のために彼女は生きなければならない。

「そして、最後は笑顔で」

そう言って、彼女は満面の笑顔を浮かべる。

これが最期が近づいている人の笑顔なのだろうか。
そのように誰もが思うことだろう。
それほどまでに彼女の笑顔は美しく輝いていた。
しかし、同時にその輝きに辿り着けるのは、彼女と同じ領域にいる者だけなのだ。

祐一はその笑顔を見つめた。
そして、栞との記憶を思い出す。
もう彼は限界だった。
そんな笑顔を見せられてしまっては、偽り続けることなんて出来ない。
彼の固い決意が崩れ去っていく。
所詮は独り相撲だった。
元から彼の限界は見えていたのだ。

彼女は始めから祐一に対して真摯な態度で向かっている。
だから、彼もそれに答えなければならなかった。

「……駄目だな、俺も」

ぼそりと祐一は一言漏らす。

「悪い、お前を傷つけてしまった。許して欲しい」

深く頭を下げる祐一。
もはや彼に栞の言葉を拒絶することは出来ない。
偽りを捨てた祐一は、素直な感情を栞に向けていた。

「いいえ、傷ついてしまったのは祐一さんです」

変わらない笑顔を栞は浮かべていた。

「頭を上げてください。謝る必要があるのは私だけですから」

「違う。これは俺が謝らなければならないんだ」

全ての偽りに対する謝罪。
それが祐一の理由。

「いえ、私にはお姉ちゃんの分も謝る必要がありますから」

自分の罪と姉の罪。
その二つが栞の理由。
そして、栞は本当に祐一に謝罪する理由があるとは思っていない。

「香里も謝る必要なんてないはずだ」

同じように祐一も、栞と香里に謝罪する理由があるとは思っていなかった。
そのような意味では、二人は互いに自己を責めていると言えるのかもしれない。

「私は知っています。お姉ちゃんが祐一さんに対してどんなことをしているのか」

香里は明らかな敵意と悪意を持って、祐一に接していた。
そして、そのことについては先日の潤との会話により、栞の中では確実なものとなっていた。

「お姉ちゃんはたぶん、祐一さんを敵視することで自分を保っているんだと思います」

「構わないさ。全て俺の招いたことだ。それに、そういうことには慣れている」

それは悲しい生き方から生まれた慣れだったのかもしれない。
栞は知っている、そんな生き方がどんな虚しいかを。
過去の彼女がそうだったから。

「でも──」

「いや、良いんだ。これは俺のせめてもの償いだ」

祐一は強引に栞の言葉を遮って、言葉を続ける。

「そんなことよりも、俺には謝らなければならない理由があるんだ」

祐一は栞の瞳を見つめる。
その視線を受けて、栞は曇りのない透き通った瞳だと思った。

「栞、俺との約束を覚えているか?」

栞にはまだ言いたいことはあったが、妥協して祐一の問いに答えていた。

「……お前の生きるという決意、俺が見届ける」

栞の中に刻みこまれていた祐一の言葉。
これが全ての始まりだったのかもしれない。
生きるきっかけとなった彼の言葉の一部。
そして、栞の現在(いま)の支えともなっている。

「そうだ。それが果たせないかもしれない」

栞は驚きはしなかった。
元より彼女は、祐一にとって自身がイレギュラーな存在であることを認識していたからだ。

「俺は最後まで見届けなければならない人が出来たんだ」

ほんの少し栞の胸が痛んだ。
その痛みで自分の気持ちを嫌というほど思い知らされてしまう。
しかし、この気持ちを彼女は彼に伝えることはない。
これも彼女の決意の一つだったから。

「先ほどの人ですか?」

栞はその痛みを隠して、祐一に訊ねる。

「あぁ、あの無愛想な方だ」

先ほどの黒髪の大人びた女性のことを栞は思い浮かべる。
ただ純粋に綺麗な人だったと思う。
それが栞の感想であった。
そこには他の感情は込められていない。

「俺は酷い奴だと思う。だけど、何を犠牲にしてでもあいつとの日々を過ごしたいんだ」

強い決意。
それは栞の持つものと同じものであった。
同じだからこそ、栞には祐一の気持ちが共感以上に理解出来ている。

「いえ、それは祐一さんの当然の権利ですよ。皆に等しく優しくすることは出来ないのですから」

「ありがとう。だけど、すまない」

深く、本当に深く祐一は頭を下げる。

「頭を上げてください。いえ、これでは同道巡りになってしまいますね」

ほんの数日の付き合いではあったが、栞は祐一の性格というものを捉えていた。
それは極めて強い自己犠牲。
しかも、祐一にはその自覚がない。
だから、彼は自ら傷ついていき、苦しんでいく。
そのような性格が一番やっかいなのかもしれない。
そして、その部分では栞と同じような性格とも言える。

「祐一さん、おあいこということで良いですよね?」

同じ性格を持つならば、打開策も立てやすい。
つまり、互いに譲らない罪の意識があるのならば、互いが納得するように認め合えば良いのだ。

「……分かった。栞が良いのならそれでいい」

栞の意図を察してか、祐一はそう告げていた。










「祐一さん、久しぶりに話せて良かったです」

「俺もだ」

互いが持つ罪の意識が無くなった訳ではない。
それでもそれぞれが伝えたいことを伝え合った。
だから、二人は心なしか晴れやかな顔をしていた。

「一つお願いがあるのですが良いですか?」

「俺に出来ることなら」

少し緊張した様子で栞が口を開く。

「本当ならこういうことを頼める筋合いでないことは分かっています。だけど、お願いできるのは祐一さんだけなんです」

祐一には栞の言いたいことがある程度予想出来ていた。

「お姉ちゃんのことをお願いできますか?」

それは予想通りの言葉。
しかし、そこに込められている意味はどこまでも深い。

「……あぁ、任せておけ」

それでも祐一は迷いを見せずに答えていた。
始めから、栞に言われずとも彼はそれを実行しようとしていた。
それが残される者としての、祐一の役目なのだ。

「ありがとうございます」

祐一は栞のその感謝の気持ちに、いつか答えなければならない。
そして、そのいつかは遠い日のことではない。











「それでは、祐一さん。さようなら」

栞は今日一日で、祐一に伝えなければならないことは全て伝えていた。
しかし、内に秘める想いだけは伝えないまま。

栞の笑顔は晴れやかな笑顔だった。

祐一はその笑顔を脳裏に刻み付ける。
そして、一言別れの言葉を返す。

「……さよなら」

これが二人の交わした最後の会話となった。















「ただいま戻りました」

栞が去ってから五分ほど経った頃、佐祐理と舞が踊り場に戻ってきた。

「お帰りなさい。佐祐理さん、舞」

祐一は心の中で、二人の心遣いに対して感謝の言葉を送る。
そのおかげで栞ときちんとした会話が出来たのだ。
そして、それは祐一にとって意義の在ることであった。

「祐一、大丈夫?」

舞が祐一の傍らに来て、小声でそう訊ねていた。

「……なぁ、舞」

祐一はその質問に答えるわけではなく、彼女に話しかける。

「?」

彼は何かを口にしようとするが、少し思案する。

「……いや、なんでもない」

「気になる」

歯切れの悪い祐一を不審に思いながら、舞が言う。

「いや、本当になんでもないんだ」

舞はいまいち納得のいかない様子ではあったが、それ以上詮索することはなかった。










祐一は誓う。
目の前にいる彼女のことを誰よりも大切にしていこう、と。


それが栞に対するせめてもの祐一の誠意であった。




















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