「よう、栞ちゃん」

放課後、教室から出てきた潤は、顔見知りの女子生徒の姿を見つけて声をかける。

「あっ、北川さん」

まだ初々しさの残る制服姿の女子生徒が、嬉しそうな笑顔を浮かべる。

「ここに居るってことは、美坂かな?」

潤は両手の人差し指を使い、頭から角を生やす仕草をする。
そんな彼の様子がおかしかったのか、栞はくすっと笑い声をもらす。

「はい。それで、お姉ちゃんはまだ教室にいますか?」

あと、それをお姉ちゃんに見られたら大変なことになりますよ、と彼女は冗談めかして付け加える。

「いや、確か学級委員の仕事があるとか何とかで、担任と一緒にどっかに行ったはずだけど……」

潤はきょろきょろと辺りを見回しながら答える。
目的の相手が居ないことを確認して、彼は密かに息をもらす。

「そうですか……」

心なしか栞の声のトーンが下がる。
見た目では分からないが、明らかに彼女は落胆していた。

「約束してた?」

その様子を感じ取ってか、潤が優しく訊ねる。

「いえ。お姉ちゃんは、私に気を使ってくれているらしくて、いつも帰る約束はしていないんです」

少し思案して、潤は、栞が新しく出来た友人の話を楽しそうにしていたことを思い出す。

「なるほど、友達のことを考えてか。美坂らしいな」

友人が出来ればそれ相応の付き合いも生まれる。
当然、誰かと一緒に帰宅するということもあるだろう。
それを見越した香里の気遣いであった。

「はい。お姉ちゃんには感謝しています」

姉によせる信頼感、そういうものが栞からは感じられる。

「それでどうする? 美坂が来るまで待つかい。結構かかると思うけど」

そう言って潤は腕時計に目をやる。
時刻は三時三十七分。
彼の知る限り、担任が関わった学級委員の仕事は最低でも一時間以上はかかる。
潤はそれを栞に補足する。

「そうですね……」

栞は難しそうな顔で考え込みだした。
その様子を見ながら、潤はふと何かにひらめいたかのように口を開く。

「あのさ、栞ちゃん」

「はい?」

一時考えを中断して、栞が顔を上げる。

「もし時間が良いんだったらさ、少し俺と話しでもしないかい?」

「北川さんとですか?」

「嫌かな?」

潤は少し控えめな調子で訊ねる。

「いえっ、そんなことはありませんよ」

慌てて栞がその言葉を否定する。

「それじゃあさ、帰りがてらに喫茶店にでも入って……。あっ、もちろんおごるよ」

「うーん」

栞の脳裏に姉の言葉がよみがえる。
『いい? 栞。知らない人に着いて行っちゃ駄目よ。あと、知ってる人でも怪しい人はもちろん却下よ』

(北川さんは知らない人ではありませんね。怪しい人かと言えば……失礼ですよね)


「そこのバニラアイスが結構美味しくてね、どう?」

栞の心中を知ってか知らずか、潤は話を進めている。
しかし、バニラアイスの話題を持ち出したのが良かったのか、彼女の答えの後押しになったようだった。

「はい。着いて行っちゃいます」

栞がきっぱりとそう告げる。

「ははっ、変な人にさらわれても知らないぞ」

冗談まじりの潤の声。

「この場合は北川さんですね」

「うわっ、ひでぇ」

がっくりと頭を下げる潤。

「冗談ですよ」

それを見ながら栞はクスリと笑みをもらした。
















伝わる想い 第三十五話「きっかけ」

Written by kio









「うわー、レトロなところですね」

商店街の中ほど、少し奥に進んだところにその喫茶店はあった。
内装は淡い暖色系の色を中心に、一昔前の懐かしさを感じさせる作りででまとめられている。
程よく抑えられた照明が、どこか穏やかな雰囲気を伝えてくる。

感嘆の声を上げながら、栞は席に着いた。

「やっぱりそう思う?」

先に席に着いていた潤は、物珍しそうに店内を見回している栞に声をかける。

「はい、大人の雰囲気です。……うぅ、ドキドキしてきました」

栞が自分の胸元を押さえる。

「栞ちゃんはこういうところに入るのは初めて?」

「イエスです」

何故か微妙に英語になっていた。

「ははっ、それで注文はバニラアイスで良いのかな?」

潤は栞の手の中にあるメニューを指差しながら訊ねる。

「はい」

メニューをもう一度よく見ながら栞は答えた。
潤は慣れた様子で店員を呼んで、注文をする。

「いつものやつとバニラアイスね」

店員は注文を確認してから、カウンターへと下がっていく。

「常連なんですか?」

先ほどの店員と潤とのやり取りを見て、栞が疑問に思う。

「まぁ、そこそこは来てるね」

潤は週に一、二回ぐらいかなと付け加えた。

「私、北川さんのことを尊敬します」

キラキラと瞳を輝かせて、栞は潤を見る。

「大げさだよ。それに美坂も結構来てると思うけど」

軽く苦笑いを浮かべながら言う。

「確かにお姉ちゃんの雰囲気にピッタリですね」

しみじみと潤の言葉に頷く栞。

「実を言うと、美坂にここを紹介したのは俺だったりします」

えっへんと胸を反らしながら潤は言う。

「そうなんですか」

栞は少し意外そうな顔をしていた。

「ここってさ、コーヒーとか美味いんだけど、場所が場所だから知ってるやつ自体少ないんだよ。しかも、知ってるやつに限って、ここを自分だけの穴場にしたがる。ま、俺もその一人だけど」

「えっ、それじゃあ、私に教えちゃ駄目ですよ」

両手をクロスさせて栞がバッテンを作る。

「いや、親しいやつにはこっそり教えるのが俺流。本当に親しいやつだけだけどね」

潤の言葉にはどこか優しいものが込められていた。
栞が何かを言おうと口を開こうとしたところで。

「おまたせしました」

先ほどの店員の声。
栞の前には銀製のカップに盛られたバニラアイス、潤の前には風味の強いブラックコーヒーが置かれる。
潤は財布から千円札を出して、店員に渡す。
それを受け取った店員は、ツケの分も頂いておきます、と言って二人のテーブルから離れていく。
栞が少し困ったような表情で、そのやり取りを見ていた。
潤はなんとも言えない表情を浮かべながら。

「今更だけど、温かいものじゃなくても良かった?」

場を取り繕うように話題を持ち出す。

「大丈夫です。いつも食べてますから」

栞は先ほどのことを触れてはいけないことだと判断して、彼の話にのる。

「凄いね……」

若干、潤は苦笑いを浮かべていた。



「っ!! こ、これは……」

一口、アイスを食べたところで、栞のスプーンが止まる。

「もしかして、口に合わなかった?」

すまなそうな顔で潤が栞の顔を覗き込む。

「美味しいですっ!! 何ですか、この美味しさは」

感激の声を上げる栞を見て、潤はほっとため息をもらす。
彼は以前、この店の主人から聞いた話を思い出しながら。

「確か原料から作ってるとか言ってたな」

「本物のバニラアイスなんですね」

本物と言うよりは本格的なバニラアイスと言うのだろうか。
確かにこの店のバニラアイスは市販のものとは一線を引き、明らかに味も風味も違っていた。

「まぁね。もちろん俺のこのコーヒーも本物」

そう言って、潤はコーヒーを一口、のどに流し込む。
心なしか彼は幸せそうな表情を浮かべていた。





「ねぇ、栞ちゃん」

栞のバニラアイスがほとんどなくなったところで、潤は彼女に話しかけていた。

「はい」

栞はスプーンを置いて、潤を見る。
そして、潤の雰囲気が先ほどまでとは違うことに気がつく。
真剣な眼差し、彼は今、何か大事なことを言おうとしている。
それを感じ取った栞は、少し姿勢を正して、相手の瞳をまっすぐに見る。

潤は深く一呼吸してから、口を開いた。

「相沢祐一、この名前に覚えはあるね?」

静かだが、深く耳に残る声。
栞の頭の中が真っ白に染まっていく。
しかし、それも一瞬のこと。
何とか栞は自身を落ち着けると、高鳴る動悸を抑えて、言葉を発していた。

「……はい」

栞には今まである種の確信があった。
それは相沢祐一という青年に関すること。
栞は薄々とだが、彼と潤たちとの関係を察していた。
言葉にしたことはなかったが、彼らが友人同士であることを知っていた。
もちろん、その中に彼女の姉である香里も居たことを知っている。

栞はいつか訊ねられるはずだったこの質問に対して、前々から心構えをしていたつもりだった。
だが、今、彼女の体は小刻みに震えて続けている。

潤が話を続ける。

「実を言うと、俺は君を美坂に紹介される前から知っていた。そして、相沢との関係も何となくだが察している」

栞は初めて出会ったときの潤の様子を思い出す。
あの時の潤の様子は、彼をよく知ってしまった今となっては不自然としか思えなかった。
しかしそれは、栞が潤たちの関係を察していたように、彼もまた何かを察していたからこそありえた出来事だったのだ。

「もちろん、何があったのかまでは知らない。それに俺が知るべきことでもないと思う」

潤の口調はただ穏やかだった。
それだけに栞の胸にその言葉が刻まれていく。

「これから俺が言おうとしていることは、はっきり言っておせっかいなことなのかもしれない。それに、君を傷つけてしまうかもしれない。……だけど、これだけは言わせてくれ」

真摯な潤の言葉。
それに答えるように栞も静かに、続きを待った。

ゆっくりと潤が口を開く。

「相沢は悪いやつじゃない」

栞の胸が痛む。
外側からじっくりと内側に染み渡るような痛み。

「君達があいつを避けているのは知っている」

先ほどよりも大きな痛み。
それは否定できない事実だった。

「……美坂と相沢が戻れないところまで来ていることも知っている」

二人のことを思い出したのか、潤は苦しげに顔を歪める。
栞は教室での香里と祐一の様子を見たことはなかったが、潤のその様子を見て全てを悟っていた。
そして、それは彼女の想像していたものとそれほど離れているものではなかった。

「それでも、君だけはあいつのことを嫌わないでやって欲しい」

私は嫌ってなんかいない、そう栞は言いたかった。
だけど、それを口にすることは出来なかった。

「無理なことを言っているのは分かる。君に負担をかけてしまうことも分かっている。だけど、……あいつは苦しんでいるんだ」

潤は顔を伏せた。
先ほどまでとは明らかに違う潤の口調に、栞は彼の切なる願いのようなものを感じていた。
そして、彼の言葉が妹のような後輩に向けるものではなく、一人の対等な人間に向けて語り掛けられていることも知っていた。

「……分かっています」

とても弱々しい口調だった。
それでも栞は真摯な態度で話してくれた潤に答えるためにも、言葉を続けていく。

「私は祐一さんを嫌っていません。たぶん、嫌われているのは私です」

潤はもう顔を上げていた。
そして、栞の言葉を心の中で反芻してから、疑問をぶつける。

「どうしてそう思うんだい?」

優しい口調。
それが栞の心を自然に和らげる。
気がつけば彼女の震えは止まっていた。

「あの時、私は一瞬でも祐一さんを疑ってしまいました。……だから、もう私には祐一さんに会わせる顔がありません」

栞の言っていることが何を意味しているのか、おそらく潤は理解できなかっただろう。
それはあの時、その場に居合わせた者だけが知ることができることだったから。
それでも、潤は。

「たぶんさ、栞ちゃんがあいつのことを嫌っていないなら、大丈夫だよ。あいつはそんなことで人を嫌うやつじゃないからな。たぶん、問題は相沢がどうこうじゃなくて、栞ちゃん自身の問題なんだと思う」

「私、自身の……?」

「そう。栞ちゃんは自分を責めてしまっているんだ。それが罪悪感という形になって、君を苦しめている。違うかな?」

「…………」

おそらく、栞はそのことを理解していた。
だけど、それを無意識に避けてしまっていた。

「説得力がないかな? これでも俺、観察力と人を見る目だけはあるつもりなんだけどな」

潤の言葉が、栞に一つの答えをぶつけてきた。
そう、つまりは。

「大丈夫、その目で見て相沢は馬鹿なぐらい良いやつなんだって。だから、恐れずあいつに向かっていけば良い」

自分が逃げているだけだった、ということを。

「私は……」

「今答えは出さなくて良いよ。ただ、頭の片隅にでも入れておいてもらえれば良い」

そう言って、潤が優しい笑みを浮かべる。
そして、すっかり冷めてしまったコーヒーをすする。


そんな潤を眺めながら、栞は一つの疑問を浮かべる。

「でも、どうして北川さんがそこまで……」

そう口に出してから、栞はそれが失言であることに気づく。
彼の行動が、友人を思ってのことだというのは一目瞭然だった。
しかし、潤はその言葉を気にした風でもなく。

「別に相沢のためじゃないよ。むしろ、あいつだけの話だったら俺はここまでしない」

栞はその言葉は嘘だと思った。
何となくだが、潤が照れ隠しでそう言っていることが分かったのだ。

「あいつが苦しむとそれ以上に苦しむやつが俺の近くに居る、それが嫌だっただけだよ」

栞の脳裏に姉の親友の姿が浮かぶ。

「名雪さんは私達と祐一さんのことを知っているのでしょうか?」

それは聞かなければならないことだった。
もしかしたら、あの優しい先輩も自分達のことに胸を痛めているのではないか、と言う考えが栞の中にちらつく。

「たぶん、気付いているよ。いや、一番最初に気付いていたんだろうな。何たって相沢のことだからな」

潤の答えは肯定を示していた。
しかし、同時に彼の言葉には。

「北川さん……?」

栞は北川の顔を覗き込む。
一瞬、彼の顔に寂しさのようなものが浮かんだように見えたからだ

「ん? あれは……。おーい、美坂」

潤の視線は栞よりも後ろの方を向いていた。
栞が振り返ると、そこには姉の姿。

「北川君? え、栞っ!?」

驚いた様子で香里が二人の元に駆け寄ってくる。

「どうして二人がここに居るのよっ?」

「ははっ、栞ちゃんを少し借りてたぞ」

香里の睨みつけてくるような視線を潤はさらりと流して、いつもの調子で言葉を返す。

「…………」

訝しそうに香里は潤を見る。

「大丈夫だって。変なことはしてないから」

「してたら燃やすわよっ。その触覚」

「触覚言うなっ」

潤はごほんと会話を仕切りなおすと、真剣な表情で香里を見る。

「何よ?」

「ただ栞ちゃんに告白していただけだよ」

「……えっ?」

あまりにもあっさりと告げられた言葉。

「ふられちゃったけどな」

潤が清々しい笑顔を香里に向ける。
それははたから見れば、告白してふられた人間が何かを吹っ切ったような表情に思える。
しかし、栞はそれが偽りであることを知っている。
慌てて口を開こうとした栞だったが、それを言うことはできなかった。
何しろ事実を告げるということは、香里に対しての禁句を言うことと等しいことだったからだ。
そんな栞に潤が目線を送る。
それは先ほどの会話を香里には秘密にしておくことを意味していた。

「それじゃあ、俺は行くよ」

無言のメッセージが栞に通じたことを確認して、潤が立ち上がる。

「楽しかったよ。また一緒に来ような。あ、美坂。栞ちゃんのこと大事にしてやれよ」

未だに呆然としている香里の横を過ぎて、潤は喫茶店を出て行く。

「北川さんっ」

無意識に栞は潤の後姿に声をかけていた。

「あっ、その……ありがとうございますっ」

彼女は感謝の言葉を告げると、深々と頭を下げた。
潤は立ち止まることなく、出口に向かっていく。

ゆっくりと彼女が顔を上げると、潤は右手を上げてそれに答えてくれていた。




















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