伝わる想い 第三十四話「残されるということ」

Written by kio









「あの、少しよろしいでしょうか」

復学初日の放課後、栞は一人の女子生徒に話しかけていた。

「……何ですか?」

その女子生徒は読んでいた文庫本を閉じると、無機質な視線を栞に向ける。
言葉にはしないが、明らかに彼女からは拒絶の意思が感じられた。
栞は一瞬躊躇うが、何とか言葉を口にする。

「天野さん、ですよね」

「……はい」

ほんの少しの間を挟んで、女子生徒は肯定の言葉を返す。

「はぁ、良かったです。人間違いだったらどうしようかと思いました」

ほぅっと、栞は安堵のため息をつく。

「……」

「その、天野さん、お久しぶりですね」

「……そうですね」

にこやかな表情を浮かべている栞とは対称的に、天野と呼ばれた女子生徒は無表情だった。

「ずっと会いたいと思ってました」

「そうですか。良かったですね」

淡々とした言葉。

「はい、とっても嬉しいです」

全身から嬉しさを滲ませる栞。
その様子から目を逸らして、女子生徒は立ち上がる。

「それでは、失礼します」

「えっ、天野さん?」

立ち去ろうとする彼女を栞が呼び止める。

「ご用件はそれでお済みなんですよね」

女子生徒は感情の見えない声で栞に訊ねる。

「え、あ、はい……」

「それなら、問題はないはずです」

すたすたと女子生徒は去っていく。

「あっ、待ってください」

「……何ですか」

教室を出ようというところで立ち止まる。
微かに彼女の声に煩わしさが混じる。

「もしご迷惑でなければ、少しお話でもしませんか」

「迷惑です」

間髪いれない返事だった。

「えっ……」

「それでは、急ぎますので」

軽く頭を下げて、女子生徒は去っていった。

「……」

栞はただ無言で、その場に留まる。

「栞ちゃん」

「あ、はい」

栞が振り返ると、一日で顔見知り以上に親しくなったクラスメイトの姿があった。

「ごめんね、立ち聞きする気はなかったんだけど、聞こえちゃった」

「いえ、気にしないでください」

取り繕うような笑顔を見せながら栞が答える。
そのクラスメイトは困ったような表情を浮かべて、言いづらそうに言葉を口にした。

「ええと、天野さんは誰にでもああだから、気にしないほうが良いよ」

少しの間。

「そうなんですか?」

確認の意味で栞が聞き返す。

「うん。だから気にしない、気にしない」

「……はい」

複雑な表情を浮かべた栞だったが、最後にはそう頷いていた。















一月十九日。

「おはようございます、天野さん」

栞は昨日よりも早い時刻に登校していた。
それは天野美汐という女子生徒に会うための行動であった。

「……」

「天野さん?」

相手に反応がないことを疑問に思い、栞はもう一度声をかける。

「何のつもりですか?」

彼女の心情を表すように、刺々しさを感じさせる言葉。

「えっ、ただのあいさつですけど」

「私のことは他の方から聞いたのでしょう?」

「あ、はい」

そのおかげで、栞は彼女が早い時間に登校してくることを知ることができていた。

「そういうことです」

それならば言うことはない、という様子で美汐は会話を切り上げようとする。

「? 分からないです」

「……話しかけないでください、という意味です」

微かに美汐の言葉から苛立ちが感じられる。

「もしかして今、急いでいるんですか?」

美汐の昨日の様子を思い出しながら栞が訊ねる。

「そういうわけではありません。……分かりました。おはようございます。これで満足ですか?」

栞はにこりと笑う。

「はい。おはようございます」

美汐のあいさつが嬉しかったらしく、もう一度彼女はあいさつをしていた。

「……」

美汐は彼女から視線をずらす。

「天野さん、もしご迷惑でなければ少しお話しませんか?」

それは昨日と同じ台詞だった。

「迷惑だと言ったはずです」

「でも、朝のホームルームまではまだ時間がいっぱいありますし」

栞は美汐と話す時間を設けるために、わざわざ早めの登校をしてきたのだ。
ここで諦めるはずがなかった。
そんな栞の意気込みを感じたのか、美汐は少し思案をして。

「……分かりました。ここでは何ですから、場所を変えましょう」

「はい」

無言で歩き出した美汐の後を、栞が追った。










「うわぁ、私、図書室に初めて入りました」

キョロキョロと栞は室内を見回す。
当たり前のように大量の本が並んでいた。

「図書室では静かにしてください」

「あ、ごめんなさい」

少し赤面しながら栞は謝った。

「と言っても、この時間帯に他の人なんていませんが」

「そうなんですか」

美汐の言葉から、彼女がこの時間帯の図書室に縁のある人だということが分かる。

「はい。だから、少しぐらいの会話なら問題はありません」

それを了承の意思と取ったのか、先ほどよりも若干声量を抑えて栞が口を開く。

「ええと、天野さんはドラマは好きですか? 私、自慢じゃないですけど、ドラマについては詳しいんですよ。特に恋愛ドラマについては……」

「私は世間話をするために、ここに来たわけではありません」

美汐はピシャリと栞の言葉を切る。

「これは忠告です。これ以上、私に話しかけようなんて考えないでください」

「どうしてですか?」

昨日のクラスメイトとの会話で、ある程度予想のついていたことだったが、彼女は訊ねていた。

「私は一人で居たいのです」

予想していた言葉だった。

「だったら、私と友達になりませんか? 二人ならきっと楽しいと思いますよ」

「人の話をよく聞いてください。私は一人で居たいと言ったのです。友達が欲しいなんて一言も言ってはいません」

明らかな拒絶がそこにはあった。

「ええと、私は天野さんの友達になりたいです」

それでも諦めずに栞は言葉を続ける。

「……他をあたってください」

「天野さんでないと意味はありません」

美汐が微かに今までとは違う反応を見せる。

「……それは同情ですか」

冷え切った感情。
それに伴う冷たい言葉だった。

「えっ?」

栞にとって、今の美汐の言葉は予期しないものであった。

「クラスでたった一人だけ除け者になっている私が可哀想なのですか」

彼女の言葉には自身に対する侮蔑が含まれているようだった。

「ち、違いま……」

慌てて栞がそれを否定しようとする。

「それとも、あの始業式の日に私があなたの言葉に頷いたからですか」

栞の言葉が止まる。
よみがえる記憶は一学期の始業式。
確かに栞はそれを覚えていた。
覚えていたからこそ彼女は今、美汐の前にいる。
彼女はゆっくりと口を開き。

「……はい。でも、それはきっかけです。私は天野さんだから友達になりたいと思ったんです」

正直に自分の気持ちを伝えていた。

「なるほど。あなたの言い分は分かりました。でも、私は一人になることを望んでいます。あなたにはそれを邪魔する権利がありますか?」

美汐の質問は、彼女自身を孤独に追いやっていくことと等しかった。
それは他者に対する完全な拒絶。

「どうしてですか?」

栞は美汐の考えていることに同意することはできなかった。
美坂栞はおそらく、天野美汐の気持ちを理解できる。
しかし、理解できるからこそ彼女の生き方が悲しいことだと分かってしまう。
だから、彼女は一つの疑問を口にする。

「どうして、一人で居ようとするのですか」

「……」

美汐はその問いに答えようとはしなかった。
代わりに違う言葉を口にする。

「……私もひとりだから、これから友達になろう、あなたはそう言いました」

栞の瞳を見つめながら、美汐は話しを続ける。
栞は視線を逸らさなかった。
ここで逸らしてしまえば、美汐と友人になる機会は永遠に失われてしまうことを彼女は理解していた。

「私もこの人となら友達になれる、あの時は確かにそう思っていました。でも、あなたはその次の日から学校に来ることは叶わなくなった。別に恨んでいるわけではありません。ですが、時間の流れは人の気持ちを風化させてしまうんです。もっとも、風化と言っても元に戻ったと言った方が正しいのかもしれませんが」

自己に対する嘲笑。
自己嫌悪。
美汐の言葉にはそんな思いが込められている。

「──ごめんなさいっ!!」

深く頭を下げて、栞が謝罪の気持ちを伝える。

「私のせいで、私のせいで天野さんは……」

「あなたは悪くありませんよ」

美汐はいつもと変わらない無機質な口調へと戻っていた。

「でも……」

「本音を言いましょうか?」

栞の言葉を遮って、美汐はそれを口にする。

「えっ?」

栞が顔を上げる。

「先ほど言ったことも私の本当の気持ちに間違いはありません。ですが、それはあくまでも建て前的な理由です」

そう言って、美汐は栞を見つめる。
悲しい瞳だと、栞は思った。
一呼吸入れて、美汐は言葉を続ける。

「私はもう親しい人を失いたくはないのです」

「……」

微かに栞の顔色が変わる。

「クラスの皆さんが噂をしていますよ。美坂栞は最期の思い出作りのために復学をしたと」

栞はただ黙して彼女を見つめている。

「申し訳ありません。あなたにとって酷な話でしたね」

「いえ、知っています。それに本当の話です」

その栞の言葉を聞いて、美汐は少し考える。

「……そうですか。それなら一つあなたに聞きたいことがあります」

小さくこくりと彼女は頷いた。

「あなたは親しい人を失う苦しみが分かりますか?」

栞が答えを返す前に美汐は続ける。

「いえ、愚問ですね。分かるなら復学なんてしないはずですから」

その言葉に、初めて栞は自身に対する美汐の侮蔑を感じた。

「あなたは人生の終わりに、楽しい思い出として、この学校での日々を持っていけるかもしれません。ですが、残された人達は悲しい思い出として、これからの一生、あなたとの記憶を背負っていかなければならないのですよ」

栞の瞳が揺らぐ。

「そして、それを私にまで背負わせようと言うのですか?」

その言葉は決定的なものだった。
栞は苦しげに顔を伏せる。

「……分かっています。これが私のわがままで、皆さんに迷惑をかけてしまうことは。でも、譲れないんです。これだけは譲れないんです」

弱々しい口調ではあったが、そこには栞の強い意志が感じられた。
おそらくそれは、彼女自身ではない誰かのためを思っての譲れないことだったのだろう。

「分かりました。でも、そこに私を巻き込まないでください」

いつも通りの美汐の口調だったが、栞にとってはそれが何よりも辛らつな言葉に聞こえていた。

「……はい……」

消え入りそうな声で栞が頷く。

「それでは、私の話は以上です」

美汐は早々と図書室を出て行こうとする。

「……天野さん」

「何ですか」

昨日と同じ光景。
だけど、何かが決定的に違っていた。
それは──。

「……ごめんなさい」

その言葉に集約されていたのかもしれない。

「……」

美汐は何も言わず、図書室を去っていった。















「おはよう、栞ちゃん」

「……おはようございます」

教室に戻った栞に一人の女子生徒が話しかけてくる。

「どうしたの? 元気ないよ。あっ、もしかして具合が悪いの? ちょっと待っててね、保険の先生呼んでくるから」

「大丈夫です。具合は悪くありません」

それは本当のことだった。
ただし、肉体的なものに限ってではあったが。

「そう。でも、本当に具合が悪かったら言ってね」

「ありがとうございます」

「いえいえ」

復学してたった一日しか経っていない栞であったが、クラス内には既に友人と呼べるような生徒達がいた。
今、栞の目の前にいる彼女もその一人であった。

「その……」

言葉が詰まる。
今、思っていることを告げて良いのだろうか、と栞は心中で葛藤する。

「やっぱり具合悪いの?」

首を小さく振る。
意を決して栞は口を開く。

「もしも、もしもですよ」

今の栞には自身を強く持つ術はなかった。

「うん?」

だから、こんなにも弱気なことを告げようとしていた。

「私が明日にでも死ぬとしたら……」

ポカッ

栞の頭に軽く拳が当てられる。
栞は不思議そうに相手の顔を見る。

「いい? 金輪際、死ぬなんて言わないこと。また、言ったら怒るよ」

「でも、私は……」

栞は言葉を続けようとするが。

「はいはい、あなたは長生きします」

冗談めかした友人の言葉。

「でも……」

それでも続けようとする栞に、友人は観念したという様子で口を開く。

「ふぅ、もしもの時なんて考えたくもないけど、……そうね、その時は泣くと思うよ。しかも大泣き」

栞の脳裏に先ほどの美汐とのやり取りが浮かぶ。

「やっぱり、私が学校に来なければ……」

姉の前では決して口にしない言葉。
彼女が友人と認めている人だからこそ、口にしてしまった言葉。

「何? あの噂を気にしてるの? 大丈夫だって、噂は噂。皆がそれを真に受けて、あなたに同情しているとでも思った? それはないから。第一、同情で友情がやってられるかって、ね」

彼女は栞に同意を求めるようににこりと笑う。
栞はほうけたような表情で、そんな友人の顔を見つめていた。
そこには一切の偽りのない、友人の本心が見えたような気がした。

「同意。仮に噂が本当だとしても、あなたと出会えたことを私は後悔しない」

栞の目の前にいる友人とは別の声。

「うわぁ、みっちん、いきなり現れるな」

栞の友人は振り返り、みっちんと呼んでいる女子生徒を見る。

「気にしないでもらいたい」

少し無愛想なみっちんという女子生徒の言葉。
そんな二人の姿を交互に見ながら、栞はゆっくりと顔を伏せる。

「……」

「あれ? 栞ちゃん、どうしたの?」

栞の様子を不審に思ったのか、彼女は声をかける。
みっちんと呼ばれた女子生徒も栞を見る。

「……ありがとう……ございます」

顔を伏せているため見えなかったが、二人には彼女の声でその表情が分かった。

「わ、わぁっ、泣くな、泣くな、……みっちん、へるぷ」

慌ててなだめにかかる一人の友人。

「栞さん、泣かないで、アメあげるから」

みっちんと呼ばれた女子生徒はポケットから小さなアメを取り出して、栞の前に持っていく。

「おいおい、美坂を泣かせるなよ」

「美坂さんをいじめるなよな」

少し離れたところから男子生徒達の声。

「うるさい、だまってなさい」

栞の近くで友人の声。
言葉とは裏腹に驚くほど優しく彼女のことを泣き止ませようとしている。

「はい、美坂さん。ハンカチだよ」

教室に入ってきたばかりの女子生徒が、今の状況を察したのか水色のハンカチを差し出してくれる。
それを栞は受け取る。



──涙が止まらなかった。



(私は幸せです。こんなにも優しい人達の中に居られるのですから)



人前では決して泣かないと誓った少女が流した涙。



それは──。






















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