一月十八日。
栞は今日という日をどのように思っているのだろうか。
一学期の始業式の日から長い月日が経ってしまった。
あの日、彼女が倒れなければまた違う今日があったのかもしれない。
想像することは出来る幸せな過去。
だけど、創造することは出来ない過ぎ去りし過去。
だから、それは儚い幻想にしか過ぎない。
彼女は今、幸せだろうか。
期待に胸を膨らませているのだろうか。
それとも、不安なのだろうか。
泣きたくなるぐらい悲しいのだろうか。
私には分からない。
その月日を過ごしてきた彼女にしか分からないことだから。
だけど、彼女が今、幸せだったら私はどんなに嬉しいことだろうか。

「お姉ちゃん?」

真新しい制服に身を包み、私の隣に栞が立っている。
彼女はあの始業式の日から時を止めていた。
それは悲しいことだったかもしれない。
だけど、悲しいのなら今からでもそれを楽しさで埋めていけば良い。
今日から、彼女の時は動き始めるのだ。
──私達が再び、姉妹として始まったように。

「さあ、行きましょう、お姉ちゃん」

子供のように無邪気にはしゃぐ妹の姿。
見るだけで私を幸せにする暖かい笑顔。

それだけで、全てが杞憂であることを知った。

















伝わる想い 第三十三話「彼女が望んだ日常」

Written by kio









教室の前に立つ。
休んでいたのはほんの数日だというのに、ひどく久しぶりのように感じる。
そう思えるほど、この数日にたくさんの出来事があったということなのだろうか。
少し思いを馳せてみる。
様々な感情を含んだ記憶の欠片。
そこには私と栞との思い出が凝縮されていた。
思い出したくないこともいくつかあったが、総じてみれば楽しい日々の方が多く思い出される。

今頃、栞も教室の前でこんな風に立ち止まっているのだろうか。
いや、彼女なら案外すんなりと教室の中に入って、友達の一人や二人作っているのかもしれない。

扉を開ける。

「おはよう、皆」

いつも通りの自分がそこに居た。

「あ、香里、おはよう。もう体調は大丈夫?」

親友が一番に挨拶を返してくれる。

「ええ、おかげ様でもう大丈夫よ」

微笑みに近い表情を名雪に向ける。
それが自分でも驚くほど自然に出来ていた。
数日前までの自分とは大違いだ。
そのおかげか彼女はほっと胸をなでおろしていた。

「うむ、健康そうで結構だぞ、美坂」

それなりに親しい(とは思っている)男子生徒の北川君が話しかけてくる。

「……あなた誰よ」

彼の態度がどことなく偉そうだったから、サラッと流しておく。

「美坂がいじめる……。なぁ相沢、なんとか言ってやってくれよ」

いつもの自分が消え去っていったのが分かった。
あえて視界には入れていなかった人物の姿が目に飛び込んでくる。
負の感情が心の中に生じてしまっている。
たぶん顔には出ていない。

「……ああ、元気そうだな、香里」

その声、その姿、その存在を否定したい。
今すぐにでも、この男をどうにかして消し去りたい。
それでも、私は理性で感情を抑えて、言葉を返してやる。

「……ええ、おかげ様で」

これ以上、この男と話すことは不可能だった。
名雪達の前で本音を告げてしまうかもしれない。
それが私達の全てを破壊するきっかけとなってしまうかもしれない。

扉の開く音がした。

「ほら、ホームルームを始めるぞ」

見慣れた担任の姿。

「あ、先生だ」

「お、石橋のやつか」

運良く、担任が入ってきて会話はうやむやで終わる。
名雪と北川君が早々と席に着き、私もそれに習う。
私は誰にも気づかれないように胸を撫で下ろした。















休み時間ごとに、私は名雪からノートを借りて、授業の遅れを取り戻していた。
名雪はいつも寝ているようで、きちんとノートをとっているところが凄いと思う。
加えて、ノート自体も読みやすく整理されているため、内容理解がしやすかった。
稀にミミズの這ったような文字があるのは愛嬌だろう。

「ごめんね、下手な字で」

名雪がチラチラと私のノートと自分のノートを見比べながら言う。

「ううん、そんなことないわ。綺麗な字よ」

名雪の字は女の子らしく、丸くて可愛らしい字だった。
たぶん、彼女が不安に思っているのは自分が夢の世界に飛び立っているときの文字なのだろう。
私には気にならないけど、彼女は気になるというレヴェルの話だ。
それに隣にいる男子生徒の字よりは遥かにマシである。
チラリと視線を隣に向ける。
もちろんそれより前方を見てはいけない。
当の本人はそれに気づいたのか、ん?、という顔をしていた。

「そうかな。ありがとう、香里」

名雪の美点はこんな大したことでもないことで、きちんとお礼を言えることだろう。
ただ時々、彼女があまりにも素直過ぎて、こちらが照れてしまうこともある。

「お礼を言うのはこっちよ。本当に助かるわ」

私は少し恥ずかしがりながら感謝の言葉を返した。















退屈な四時間目の授業が終わり、昼休みに入る。

「何か元気ないよ」

「大丈夫だよ。……ああ、俺はちょっと他に行くところがあるから」


近くで名雪とあの男の会話が聞こえてきた。
正直、名雪にはあの男と口をきいてもらいたくはない。
でも、私がそれについて何かを言えば、彼女は必要以上に私達に気を回してくるかもしれない。
名雪にはそんな要らない負担などかけたくなかった。
だから、あの男が彼女に対して危害を加えない限りは黙認することにしていた。

「そうなんだ……」

「それじゃあな」


名雪との話が終わり、あの男が教室を出て行こうとする。

──何か黒いものが私の中で蠢いた。

「あ、皆、今日は私の妹を紹介するわ」

私はこれ以上ないぐらい楽しげな口調でそう告げていた。
それはたった一人に向けた、当てつけであった。

「えっ!? 香里って妹がいたの?」

名雪が驚きの声をあげる。
たぶん彼女は驚くだろうという確信があった。
数年間、親友をやっていればお互いの家族構成などもある程度は把握できてくる。
しかし、私は違った。
名雪も含め他の誰にも妹の存在を隠し続けてきた。
私が名雪の家庭環境を知っている上で、それはフェアな関係とは言えなかった。
だが、それだけは知られるわけにはいかなかったのだ。
──ほんの数日前までは。

「ええ、ちょっと今まで病気がちで、学校には来れなかったんだけどね……。学食で待ってるはずだから、早く行きましょう」

今、この会話をあの男はどのように聞いているのだろうか。
そう考えると少しだけ笑みが浮かんできた。
──どこかが痛んだ。

「うん、分かったよ」

「よし、美坂チーム発進だ」

名雪と北川君が学食へと向かっていく。
私もその後を追うようについて行こうとして、ふと思いつく。

「そうだ、七瀬さんも一緒に学食に行かない?」

私にしては珍しく他の人を食事に誘っていた。
もちろん、彼女とは何度か一緒に昼食を食べたことがあるという前提は存在するのだが。

彼女から返事が返ってこない。
見ると、七瀬さんは私が出て行こうとしていた扉とは反対方向にある扉をじっと見ていた。

「七瀬さん?」

疑問に思いながらも、もう一度声をかけてみる。

「えっ、美坂さん? 何かしら」

先ほどの言葉は聞こえていなかったらしい。

「いつものメンバーで、一緒に学食でお昼にしないかしらと思って」

それで誘おうとしていたんだけど。
彼女は少し考えたようだったが。

「いえ、遠慮しておくわ。今日はお弁当を作ってきたから」

結局、誘いは断っていた。

「そう、……残念ね」

もしかしたら、彼女は先に誰かと昼食の予定があったのかもしれない。
そうなると、これ以上の強制は出来ない。
残念だけど、これで用件は済んでしまった。

「香里、早く〜」

教室の外から名雪の声が聞こえてくる。
私も早く行かないと。

「それじゃあね、七瀬さん」

「ええ」

教室を出て行く瞬間、何故か七瀬さんのささやきに近い声が耳に届いたような気がした。
──それにいつものメンバーではないわ、と。















「初めまして、美坂栞です」

ぺこりと栞は頭を下げた。

「よろしくね、栞ちゃん」

名雪が笑顔で栞を迎える。
続けて彼女は思い出しように付け加える。

「あ、私は水瀬名雪。なゆちゃんって呼んでね」

「え、ええと、なゆちゃん……ですか」

栞が困ったような表情を浮かべている。

「もう、名雪、栞をからかわないの」

なゆちゃんってあなたいくつよ。

「え、私、変なこと言ったかな」

?を彼女は頭に浮かべている。

「……そう言えば、名雪は天然だったわね」

「えっ? 私、天然じゃないよ〜」

名雪は一人、憤慨ですという様子だった。

「ええと、なゆちゃんは流石にあれですので、名雪さんと呼ばせてもらいますね」

栞が困ったような笑顔を浮かべながら言う。

「うん。でも、少し残念」

やっぱり、あなたは天然よ。

そんな私達のやり取りを、北川君は一言も発しないで見ていた。

「北川君?」

少し彼の様子がおかしいように思えた。
よく見ると、彼の視線は栞に向いているような気がする。
その表情は真剣なものであった。

「ねぇ、北川君?」

彼は二度目の呼びかけで、われに返ったのかゆっくりと口を開く。

「……結婚してくださいっ」

行き成りそれかっ!

「殴るわよっ」

いつになく真剣だと思ったら、人の妹に手を出そうと考えているなんて。

「ごめんなさい」

あっさりと彼は謝っていた。
もしかして、私が怖かったのだろうか。

「ふふっ、北川さん、面白いです」

どうやら栞はさっきの言葉を北川君なりのジョークととららえたようだった。
私には本気に見えたのだけど。
でも、北川君らしい冗談と言えばらしいのかもしれない。

「ところで栞、学校はどんな感じ?」

授業中もずっと気になっていたことを訊ねてみる。
北川君の自己紹介がきちんと出来ていないような気もするけど、気にしない。

「そうですね……」

少し彼女は考えて。

「楽しいです」

満面の笑みだった。

「クラスの皆さんは優しく迎えてくれましたし、友達と言えるかは分かりませんが、何人かの人とも仲良くなりました。授業はさすがについていけませんが、授業を受けること自体が新鮮で楽しいです。それに名雪さんと北川さんとも知り合えました」

名雪が少し照れていた。

「あと、お姉ちゃんも居てくれますし」

「私はおまけみたいね」

少しだけいじらしく言ってみる。

「いえ、そんなことはありませんよ」

サラッと返す栞。
なにやら栞は私の扱いに長けてきたような気がする。
気のせいだろうか。

「うーん、私も妹がほしくなっちゃったな」

名雪がポツリとそんなことをもらす。

「うんうん、栞ちゃん、俺のことお兄さんと呼んでも良いんだぞ」

待て、北川。

「お姉ちゃんに遠まわしのプロポーズですか」

栞が目を輝かせる。
どうやら栞は彼の言葉を曲解してとらえてしまったらしい。
そう言えばこの子、恋愛ドラマとかが好きなのよね。

とにかく、それはひとまず置いておいて。

「それで、北川君、覚悟は良いのね」

私は鋭い視線を彼に向ける。

「ごめんなさい」

深々と頭を下げて、北川君は謝っていた。


「ふふっ、皆さん、そろそろお食事にしませんか」

栞が持参してきた重箱を開けにかかる。

「私と栞とで作ったお弁当よ。味は保障するわ」

「ねえ、香里」

「聞かないで」

たぶん名雪の言いたいことは分かる。

「量が」

「聞かないで」

私だって思ったもの。

「少し多くないかな」

栞の手元を見ると、重箱数段重ねが悠々とそびえていた。
……持ってくるのに苦労したのよね。

「この子がちょっと調子に乗って、作りすぎちゃったのよ」

ため息をつく。

「だけど、余ったら北川君が食べてくれるだろうし、心配しなくてもいいわよ」

「うんうん、って俺?」

疑問の声を上げる北川君。

「大丈夫、美味しいから」

やさしく諭してあげた。
北川君はじっくりと重箱数段重ねを眺めてから、視線を私達に戻す。
栞の期待に満ちた目。
名雪の尊敬するような眼差し。
私の威圧的な視線。

「まぁ、何とかなるだろう」

彼は半分諦め気味にそう呟いていた。
さすが北川君だわ。
心の中で褒めてあげた。

さて、話をしていたら結構な時間になってしまったわね。
学食の壁時計を見ながら、そう心中で呟く。

「それじゃあ、そろそろ食べましょうか」

『いただきます』

私の言葉で三人が声をそろえていただきますをする。

早速、私は唐揚げを一つ摘む。
栞の手料理を食べるのはいつ以来だろうか。
だいぶ昔に感じられる。
サクッ、という小気味の良い音と共に鶏肉の味が口の中に広がる。
うん、程よい塩加減。

「どうですか、お姉ちゃん」

不安と期待の入り混じった表情で栞が訊ねてくる。

「とっても美味しいわよ」

にこっと笑って答える。

「良かったです。あ、お姉ちゃんのハンバーグも美味しいです」

私作特製ハンバーグを食べながら栞は言う。

「いちご、いちご、イチゴッ」

「名雪、それはデザートよ」

イチゴが丸ごと詰まったイチゴゼリーを、名雪は幸せそうに食べていた。

「えっ、おいしいよ、いちご」

「はぁ、聞いてないわね、この子」

まぁ、どうしてもデザートが一番最後でなくてはならないというわけではないから良いけどね。

「このほうれん草の胡麻和えもいけるな」

北川君は肉じゃがを一通り食べ終えてから、ほうれん草の胡麻和えに移っていた。

「うおっ、このきんぴら堪らないな」

さっきから渋いチョイスね北川君。
やっぱり男性はお袋の味のようなものを好むのかしら。

「栞ちゃん、このいちごのババロアはどうやって作るのかな」

「ええと、それはですね、隠し味に柑橘系の……」

穏やかな栞と名雪の会話。

「地味に美味いな、この豆の料理」

せっせと料理を口に運ぶ北川君。

それを満足げに眺める私。

たぶんこれが栞の望んだ日常。
こんなにありふれているのに、彼女はそれを望んで止まなかった。

それが少し悲しくて、儚かった。





『ごちそうさま』

声をそろえてごちそうさまをする。
近くの席に座っていた生徒が訝しげな目で私達を見ていたが、気にしない。

「美味しかったよ、栞ちゃん」

結局名雪はイチゴ料理をほとんど一人で制覇していた。

「うぅ、もう食べれん」

北川君は面白いぐらいにぐったりとしていた。

「北川君、あなたは頑張ったわ」

ほんの少し彼を労ってあげる。

「美坂、俺、もう休んでも良いよな。十分頑張ったよな」

「ええ」

「それじゃあ、俺、次の授業……」

「授業は出なさいよ」

「ぐわっ」

北川君が地に伏す。
大げさよあなた。










「お姉ちゃん、学校って楽しいですね」

教室への帰り道、栞はポツリとそう私にだけ呟いていた。
彼女の表情は晴れやかでとても生き生きとしたものであった。

それぞれの教室への分かれ道である階段が近づいていた。

私はほんの少し、今日の学食での出来事に思いを馳せる。
暖かな日常。
栞の心からの笑顔がはっきりと浮かんでくる。

「ええ」

栞にだけ聞こえる優しい同意の声。
それは先ほどの彼女の質問への答えだった。
あれほど、空虚で受動的だった学生生活が、栞を加えたことでまったく違うものへと変化していた。



それはどこかで私が望んでいたものだったのかもしれない。




















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