相沢祐一。
それは憎悪の対象だった。
あの男は全てを裏切る。
信じた者の心を傷つける。
──そして、大切なものを奪っていこうとする。
今までの人生の中で、私は自身を除けば人に殺意を抱いたことなど一度もなかった。
だけど、それはすでに過去の話。
私は相沢祐一に対して、殺意に近い感情を抱いている。
その気になったら本当に殺せるかもしれない。


あの日、彼が栞を殺すと告げた瞬間から──相沢祐一はただの敵となった。
















伝わる想い 第三十二話「一月十六日 下」

Written by kio









あの男が笑っていた。
両隣に女性を伴って、笑っていた。
──理性がどろりと溶けていく。
よく見ればその女性には見覚えがあった。
倉田佐祐理、川澄舞。
共に整った顔立ちと話題性により、学校内では知らない人がいないほどの有名人だった。

きっと、あの二人もあの男によって傷つけられる。
そして、あの男はそれを笑いながら楽しむのだ。

栞の絶望に沈んだ表情がフラッシュバックする。

あの二人が栞に重なる。

カチリ。

何かのスイッチが私の中で押された。

──あの男を苦しめるにはどうするればいいのか?
──簡単だ。
──楽しみを奪ってやればいい。

何故か私の目には相沢祐一の姿しか映らない。
無意識に、足はそこに向かっていた。
嘔吐感を覚えるほどに感情が高ぶっている。
理性はとっくに限界を超えている。
それでも表面はどこまでも美坂香里の皮を被っていた。

「あら、相沢君。奇遇ね」

自然な口調だった。
あの男を友人、もしくはクラスメイトと認めていた頃のものに似ている。

「あ、ああ……」

相沢祐一は私のことを少し前から認識していたらしく、漠然とした様子で足を止めている。
それを見て、目の前にいる男の驚きが手に取るように分かった。
それなのに、あの男は戸惑いながらも私の言葉に応対している。

──気に食わない。

私はいかにも今気づきました、という様子で二人の上級生を見る。

「へぇ、もう違う女に手を出しているのね……」

あの男の体がビクリと震える。

──これは愉快だった。

私は意図して哀れみの表情を二人の先輩に向ける。

「……先輩方、悪いことは言いませんから、その男には近づかないないほうが良いですよ」

言葉は本心だった。
でも、どこかがかりそめだった。

「えっ? ……どういう、ことです?」

倉田先輩が疑問の声を上げる。
その横では川澄先輩が訝しそうな目で私を見ていた。
二人の反応が予想通りで微かに笑みが浮かぶ。

──倉田佐祐理と川澄舞は相沢祐一の正体を知らない。

やはり彼女達も被害者だ。
私は心の底から同情した。
だけど、どこかで愉悦も感じている。
それが盲目的にあの男を信じている彼女達に対してなのか、過去にそうであった自分に対してなのかは分からない。

「そいつはね、女を泣かせては喜ぶ最低の人間なのよ」

はっきりと分かるぐらいに三者の顔色が変わる。
その中で相沢祐一の絶望に満ちた表情がひどく小気味が良かった。

「こんな奴な……」

バシッ

言葉を続けようとした私の頬に鋭い痛みが奔る。
それが川澄先輩の右手で行われたことを理解するのに、少し時間がかかった。
左手を当てると頬が熱を持ちはじめていた。

「祐一はそんなことしない」

「そうですよ、祐一さんは良い人です!」

明らかな敵意が私に向けられていた。
……ああ、この人達も怒るのか。
ただ漠然とそんな言葉が浮かぶ。
先入観からか、彼女達は無表情と笑顔以外の表情を見せることが出来ないと思っていた。
その怒りに満ちた表情を見ていると、何故か栞の顔が浮かんだ。

──私は悪くないはずなのに。
──罪悪感などないはずなのに。
──心が、酷く痛んだ。

「……騙されているんですよ」

彼女達から目をそらす。
先ほどまでの感情が冷めていくのが分かる。
憎しみの心が強く保てない。

「……忠告はしましたよ。せいぜい裏切られないようにしてください、倉田先輩、川澄先輩」

私は彼女達に背を向け、足早に去っていく。

──今は、早くこの場所から逃げ出したかった。















気がついたときには自宅の前にいた。
右手には重量の詰まった白いビニール袋が握られている。
どうやら買い物はおこなっていたらしい。
記憶を辿ってみると、微かにだが買い物をしていたという記憶があった。
自分自身、器用なものだと思う。
ほぼ無意識の内に買い物を終えて、帰宅を自動的に済ませているとは……。
呆れて、笑いがこみ上げてくる。
だが、笑えなかった。
代わりに引きつったような笑い顔だけが、表情に残っているような気がする。
いや、これは泣き顔かもしれない。
泣くような理由はなかったが、たぶんそうなのだ。
幸いにも鏡がなかったため、それを確認することはできなかった。

私は何をしたかったのだろう?
相沢祐一を苦しめたかった。
それは間違いない。
だけど、それだけではなかったような気がする。
ぼんやりと、だが、明確な意思を持った目的が……。

──あの二人を私と同じ目にあわせたかった。

「……っ!」

その考えに心底ドキリとする。
私がそんなことを望んでいた。
それで自分を満たそうとしていた。
憎んでいるのは相沢祐一ただ一人だったはずなのに、それ以外の人間にも負の感情を抱いてしまっている。
それは恐ろしいことだった。
何故こんなことになってしまったのだろうか。

……よく分からない。

理由が見つからない。

──本当に?

…………。

理由は見つからない。

そうでなくてはならない。


──私は私が分からない。

自分が何を考えているのか分からない。
自分の感情が理解できない。
自分の行動が理解できない。
美坂香里が分からない。

──本当に?

……分からない。

頭が混乱している。
感情が混沌と化している。
それではいけない。
すぐに栞の姉である美坂香里に戻らなくてはならない。
こんな顔を最愛の妹に見せてはいけない。
醜い心を見せてはいけない。

私は栞の姉だ。
どんなことがあっても彼女を守らなくてはならない。
そう!
栞を守らなくては。
その為にはどんな犠牲も問わない。
だから相沢祐一を敵視するのは当然の行為なのだ。
あの二人の先輩にはその感情が少し飛び火してしまったに過ぎないのだ。
心が軽くなる。

──どこかが警笛を送ってくる。

自分が今まで悩んでいたことが馬鹿らしくさえ思えてくる。

──だけど、それには気づかないふりをしよう。

混乱していた頭が冷静さを取り戻していく。

──気づいてしまったら、終わってしまう。

もう大丈夫だろう。

──だって、美坂香里はひどく惨めな存在だから。

栞がお腹を空かせて待っている。
今日は腕によりをかけて料理を作ろう。
夕食の材料の詰まった袋を右手で確認して、私は玄関を開けた。















「お姉ちゃんの作る料理は世界一美味しいのですっ!!」

夕食を終え、就寝までの時間を二人の姉妹は姉の部屋で過ごしていた。

「ふふっ、ありがとう」

妹の力説に香里は心底嬉しそうに答える。

「お姉ちゃんの料理を食べれる私は幸せものです」

「そこまで言われると、照れちゃうわね」

香里の頬が微かに染まる。

「はい、恥ずかしがらずに照れちゃってください」

「それは無理よ」

先ほどから栞は暇があれば、姉の料理の腕をべた褒めしていた。
ずっと以前から香里の料理を口にしてきた彼女である、姉の料理に対して思うことは多いのだろう。
それは何気ない会話だったが、この姉妹にとっては何よりも意味のあることだった。

「即答しないでください」

「ふふっ。……あら、もう十一時ね、そろそろ寝ましょうか?」

香里は部屋の質素なアナログ時計を見て言う。

「そうですね。それじゃあ、お姉ちゃん、おやすみなさい」

栞は立ち上がり部屋を出て行こうとする。

「どこに行くの?」

不思議そうな表情を浮かべる香里。

「私の部屋です。今日は一人で寝ようと思って」

栞の言葉に香里がビクリと反応する。

「あっ、えっと、お姉ちゃん?」

明らかに様子のおかしい姉に、栞は戸惑いを浮かべる。

「……ごめんね、栞」

うつむいているため栞には見えないが、香里は泣きそうな顔をしていた。

「ええと、その、明後日から私も学校ですよね」

無理に明るい口調で栞が話し始める。

「それでですね。たぶん、今日もお姉ちゃんの部屋で寝ると、またおしゃべりをしちゃって、明後日が大変だと思うんですよ。お姉ちゃんとお話しするのは楽しいけど、学校で体調は崩したくないんです。先生やクラスの皆の迷惑にはなりたくないですからね。そのためには今日のうちから、入院生活で乱れがちだった生活リズムを正しておきたいんです」

栞は明後日、一月十八日から一時的な復学を果たすことになっていた。
しかし、それは一般生徒の復学とは違い、彼女の最期の思い出作りという意味あいが含まれている。
もちろん、そのことを誰も口にすることはなかったが、栞本人は気づいていた。

「ですから、これは私に課した自制なんです」

香里は少し思案して。

「そう、なの。でも、それなら話をしなければ……」

「私はたぶん我慢できません」

「……私も、たぶん無理ね」

栞の言葉に、香里は昨夜の状況を思い出したらしい。

「分かったわ、少し寂しいけど仕方ないわね。それじゃあ、おやすみ、栞」

「おやすみなさい、お姉ちゃん」

栞は笑顔でそう言って、部屋を出て行く。










「…………」

自室に戻り、栞は床に就く。
月明かりが彼女の部屋を照らしていた。
その月を眺めながら彼女はポツリと言葉を漏らす。

「……嘘、ついちゃったな」

一つだけ彼女は姉に言えない秘密があった。
それを隠すために考えた嘘が先ほどの話である。
いや、正確にはその話自体に偽りはなかった。
しかし、それはこじ付けようなもので、本当の理由は他にあった。

「!! うっ……」

栞は胸を抑える。
それと同時に突き刺すような痛みが体中に走っていた。
苦しみをじっと耐える。
悶えるように体を動かすが、決して叫び声は上げなかった。
やがて痛みは止む。
額が微かに汗で濡れていた。
日に日に苦しむ時間が長くなっているような気がする。
この痛みは最近になって毎日、彼女を襲うようになっていた。
栞の体に現れている確かな異常。
彼女はこのことを発作のようなものだと認識している。
しかし、その症状を彼女の担当医にも両親にも告げてはいない。
もちろん、姉にも。
こんなつまらないことで今の楽しい時間を失いたくはなかった。
それにこのことを告げたとしても、彼女の残りの人生が床に伏すだけのものになるだけで、病気が治るわけではない。
彼女は確信している。
死が目前に迫ってきていることを。
奇跡など起こらないことを。
だからこそ、このことを姉に知られるわけにはいかない。
知られることを恐怖しなければならない。

「祐一さん……」

唐突に栞の脳裏に彼と過ごした記憶がよみがえってくる。
自分に生きる希望を与えてくれた青年と過ごした楽しき日々。
恋人同士のようだった二人。

彼女の瞳は悲しかった。
だが、それは幸せだったあの日を映していた。

また唐突に、彼から決別を告げられた日の映像が浮かび上がる。
ほんの昨日のことだと言うのに、それは色あせているように見えた。

「……祐一さんは、嘘が下手です」

ぽつりと彼女はつぶやく。
彼女の虚ろな瞳が月を見つめる。
月が彼女の記憶の中にいる彼と置き換わる。
彼女の目の前には記憶の中の彼がいた。
それは幻。
だけど、彼女は気づかない。

──暗闇の中、彼女は独りでいる。
──言いようのない不安が彼女を包み込む。
──独りだから、弱さが現れる。
──強い人間なんていない。
──人は必ず弱いはずだから。
──怖い。
──彼女はいつも恐怖している。



「祐一さん」


ここにいないはずの彼に彼女は語りかける。


「私、」


彼女の瞳からは涙がこぼれていた。


「わたし……」


泣かないはずの彼女が泣いていた。


「死にたくありません……」


これが彼女の本心だった。


「死にたくないですっ……!」


人の前では絶対に見せない彼女の本当の姿だった。


「怖い……、死ぬのは…こわい、よ」


栞は声を上げずに、泣き続けた。




















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