「ほいっ、差し入れ」


そう言って、ビニール袋を舞に渡す。


「……おにぎり、嫌いじゃない」


───思えば、初めて舞に差し入れを持っていったときもおにぎりだったな。

あの偶然の出会いから、どれくらいの時が流れたのだろうか。
とても長くも感じるし、短くも感じる。
実際、俺という人生の中では一瞬にも等しい時間。
それにも関わらず、今までで一番充実していて、一番幸せな時間であったことも事実。
俺はこの時を一生忘れ……

───いかん、いかん。

どうも思考が湿っぽいものになってしまっている。
俺たちはこの夜に全てと決着をつけて、明日にはまた、いつも通りありふれていて幸せな時間を過ごすんだ。
だから、そんな考えを持っていては駄目だ。


「───本当は牛丼にしようと思ったんだけど、簡単に食べれるものの方が良いんじゃないかな、って思ってな」


気を取り直して話を戻す。


「牛丼も嫌いじゃない」

「ははっ、なら全部終わった後に二人で食べに行こうぜ」

「……約束」

「ああ、約束だ」






















伝わる想い 第二十九話「笑顔」

Written by kio









静寂。

月明かりと暗闇だけが支配するこの世界。
その中に二人の男女がいた。
一人は銀色に輝く長剣を携えて、彫像のようにじっと目を閉じていた。
もう一人は物置から引っ張り出してきた木刀を手にして、窓から差し込む月明かりを見ていた。

俺たちは一言の言葉を交わすこともなく、ただ待っていた。

───どれほどの時間が流れただろうか。

5分? 10分? それとも1時間。
時間の感覚は定かではないが、この場の時がゆっくりと流れていることは実感として分かる。


「……祐一」


舞の澄んだ声が静寂の中に響く。


「来る」


その言葉を合図として、全てが一斉に動き出した。


ガシャン


目には映らないものが窓ガラスを破壊する。
それと同時に舞と俺はリノリウムの床を駆けていた。

舞は魔物を倒すために銀色の刃を前へと掲げる。

俺は自分の力量を知ったうえで、彼女の邪魔にならないよう音源から距離を離す。


ズッ


何かを貫く鈍い音。
舞の刃が何かを確実に捕らえていた。
彼女は西洋刀をそのまま前に向け、助走のついた速さのままで走り抜ける。

そして、足を止めた。

目には映らないものの、そこにいた何かが既に消滅していたことは感覚として分かった。


「……一体目」


無意味に静かだった。
舞の声だけが音として認識できる。

───何か嫌な予感がした。

新たな気配が彼女の背後にある、そんな感覚が俺の中を過ぎる。


「舞、後ろ!」


俺は無我夢中で声をあげていた。


ブンッ


刹那、舞は右足を軸にして振り返り、一瞬で背後の何かを切り裂いていた。


ドンッ


その映像を残像として残しながら俺の体は倒れていく。
後頭部に鈍い痛み。
どうやら舞に気をとられていて、さらなる魔物の出現に気がつかなかったらしい。

───まずい。

痛みのせいか足が痺れていて、思うようにならない。

確実に目の前に何かがいる。


ドン


さらなる衝撃。

目がチカチカする。
しかし、幸いにも無意識に木刀を掲げていたおかげで致命傷とはならなかった。


ズッ


銀色の刃が目の前を通り過ぎる。
いつの間にか舞が目の前にいた。

音も立てずに魔物は気配を失っていった。


「…はぁっ、大丈夫? 祐一」

「ああ、…何とか」


俺は自分の無力さを思い知っていた。
初めから戦闘において彼女の役に立てるなどとは思ってはいない。
俺は殴り合いもしたことのないただの素人なのだから。
それでも自身に対する憤りは抑えきれない。

───舞の力になるどころか、俺は彼女の足を引っ張ってしまっている。


「…はぁっ、はぁ……」


苦しそうな息遣いがすぐに近くから聞こえる。
見ると、舞は呼吸を荒くして床に膝をついていた。


「──舞!」


先ほどの三度にわたる魔物との戦いが、彼女の体力を奪っているのだろうか。

俺は彼女の元に駆け寄る。
どうやら足は正常に動くようになったらしい。


「…はぁ、げほっ…っ…」


異常なほど咳き込む舞。
暗闇であまりよくは見えなかったが、彼女の口から何か黒いものが垂れていた。

───これは……血!?


「舞、しっかりしろ!」

「……はぁっ、大丈夫」


呼吸は先ほどよりは落ち着いていたが、口から血を流していて大丈夫なはずはない。

舞の顔色は闇の中でさえ青白く見えた。
加えて体中から脂汗が流れ出しているのも分かる。


「大丈夫じゃないだろ! いいからお前はここで休んでいろ」

「……それは出来ない」


舞はふらつく体を起こす。
が、俺はそれを軽く手で押しとめる。


「あと魔物は一体なんだろ。俺一人でも大丈夫だ」

「祐一じゃ無理。…はぁっ……私じゃなきゃ…」


そんな身体で何言ってるんだよ……。


「大丈夫だ。さっきはちょっと油断しただけだよ。俺だって、本気を出せば何とかなる。とにかくお前は少し休んでいろ」


それはもちろん嘘だった。
だけど、このまま舞を戦わせるわけにはいかない。

───それに、俺には思い出したことがあった。


「…………」


舞の瞳がただじっと俺を見つめている。


「……それじゃあ、行ってくる」


舞に視線は合わせず、立ち上がる。
……きっと彼女は俺が視線を合わせれば、また無理をする。
だから、俺はわき目もふらずに、ある場所を目指して駆け出した。

───何故か俺には最後の魔物の居場所が分かっていた。















ある教室の一角、そこに彼女は居た。


「……お前が魔物だな」


彼女は幼い少女の姿を形作っていた。
その姿は俺が8年前に見た少女にそっくりであった。
懐かしいワンピースとうさぎの耳を形どったカチューシャ。
少女は幼き日の川澄舞であった。

俺は一歩足を踏み出す。

少女はそれに呼応するかのように俺に視線を向ける。
俺もそれに応じて少女の瞳を見つめる。


「───もう分かり合うことは無理なのか?」


唐突な質問。
だけど、その質問には意味がある。
質問をした俺自身にも、目の前にいる少女にも、そして、舞にも。

俺は7年前に一度、目の前の少女と出会ったことがある。
その時と全く同じ質問がそれであった。


「…………」


少女は感情の見えない瞳を俺に向けている。


「わたしは」


幼い少女の声。
だが、少女の口は開いてはいない。

───目の前にいる少女の言葉が心の中に流れ込んでくる。


「わたしは舞がにくい」


幼い容姿に似つかわない確かな負の感情。


「だからこわすの」


少女は7年前に答えを出さなかった。
ただ俺の前に姿を見せて、終わりだった。
だが、今度は違う。


「舞が大切にしているもの、すべてを」


純粋な憎しみだけがそこにあった。

8年前のあの偽りを生んだ日、少女と舞は互いを拒んだ。

舞はその自分自身でもある少女を魔物とすることで、己の存在意義を作った。
そうすることで俺と会えることを信じて。

少女は幼き日の舞が生み出した悲しさの象徴。
彼女は悲しみだけしか存在しない自身を、それを作り出した舞を恨んだ。
あたかも、俺と出会う前の舞のように。

1年が経ち、二人は完全に相容れない存在となった。
仮定や理由はもはや関係ない。
だた、その事実だけが二人の間にあった。


「…………」


少女の答えはある程度は予想していたものだった。
それでも二の句が続かない。


「舞の大切な人はさゆり」

「!!」


少女の言葉が伝わってくると同時に深い憎しみの情も伝わってくる。


「さゆりはもうこわした」


そこにあるのはただ舞に対する憎しみのみ。
その他の感情は存在しない。


「もっと大切な人はゆういち」


狂おしいほどの憎しみが俺の心に流れ込んでゆく。
それはどれほど恐ろしいことか。
幼き少女の形の中に潜む狂気が確かに感じられた。


「だからゆういちもこわすの」


その言葉と同時に、少女の姿が消えた。
いや、消えたように見えた。


「…ぐっ……かはっ……」


気がついた時には、少女の小さな手が首を絞められていた。
その姿に相応しくないほどの力で。


「……かっ……ご…ほっ……」


呼吸が出来ない。
それに足掻こうと暴れて見せるが、少女は一瞬たりとも手を離そうとはしない。

───意識が遠くなっていく。

俺は薄れ逝く意識の中で、己の最後を予感した。


ズッ


「……これで…はぁっ…最後」

「かっ、…ごほっ、ごほっごほっ…ごほっ……」


俺は激しく咳き込み、体を床にゆだねる。

気がつくと、俺の首から少女の手は消えている。
混乱した意識の中、前方を見上げると、少女の腹部には銀色に輝く長剣が突き刺さっていた。


「……もう誰も傷つけさせない」


そこには、西洋刀を携え少女と対峙する舞の姿があった。


「……いたい、…いたいよ……」


自分の腹部を抑えて、泣き叫ぶ少女。
悲しいかな、これが初めて見せた少女の歳相応の感情であった。

ゆっくりと舞は少女に近づき、口を開く。


「……ごめんね」


その言葉には深い優しさが滲み出ていた。

今まで辛い思いをさせて、と付け加えて舞は剣を少女から抜き去る。

少女は不思議そうに舞を眺める。
だが、それも一瞬後には、何も存在しなかったかのように少女の姿は消えていた。

これが魔物と呼ばれたものの終焉であった。




少女の消滅と同時に、舞の体が不安定によろめき───倒れる。


「舞っ!!」


まだふらつく体を何とか起こし、両腕で舞を支える。
舞の顔色は先ほどよりも一層青白くなり、生気が感じられなかった。


「……分かっていたの」


ぽつりと彼女は言葉を紡ぐ。


「こうなることは」


彼女の呼吸は不思議なほど安定していた。


「彼女は私自身。だから、彼女が死んだとき、私も死ぬの」


舞の言葉に背筋がぞっとするような感覚を覚えた。


「そ、そんなわけないだろ。舞はちゃんと生きてるよ」


舞は力なく首をふる。


「祐一は分かるんだよね。人の死が」

「……っ……」


答えることが出来なかった。

───先ほどから痛いだけ伝わってくる近しい者の死の予感。

俺だって本当は気付いていたんだ。
彼女が長く生きられないことは。
そう、初めから分かっていた。
だけど、舞と時間を共にするようになってからは、あまりにも幸せな日々ばかりで……その予感を認めたくはなかった。
認めてしまえば全てが終わってしまうと思った。

だから、それを否定して毎日を過ごしていた。
ただ、俺はそんな幸せな時を大切にしたかっただけなのに。

それなのに……どうして。


「どうしてこうなるんだよ!!」


幾度も辛い別れは経験してきた。
その時々で次は後悔しないように、次こそは、と思い続けてきた。
だけど、ただの一回もその願いが叶う事はなかった。
それでも、

───もう別れは嫌なんだ。

目の前で大切な人を失うのはこれ以上許せない。
それに彼女は初めて、心の底から本当に好きになった人なんだ。

絶対に失いたくはない。

……失いたくない、よ。


「……祐一、泣いているの?」


涙が止まらなかった。
何も出来ない自分が、ただ見ていることしか出来ない自分が、悲しかった。
だけど、もっとそれ以上に目の前にいる人を失うことが悲しかった。


「……私は笑っている祐一が好き。だから笑って」

「……舞……」

「この別れは避けることはできないけど」


どうして彼女は笑っていられるのだろうか。


「それでも私は笑っていたい」


彼女は死ぬのが怖くないのだろうか。


「泣くのは悲しいから」


……分かっている、彼女は強い人だから、だから笑っていられるんだ。


「ねっ?」


でも、それ以上に彼女は俺のことを想ってくれている。


「…………そうだよな。湿っぽいのは嫌だもんな」


だから、舞は無理にでも笑顔でいようとしてくれる。

───俺は舞の想いに答えてやらなければならない。

俺は無理矢理に作った笑顔を彼女に向ける。


「……祐一、変な顔」


舞が自然な笑顔で笑っていた。
それは今まで見た中で最高の笑顔だった。

───心の底から笑う彼女の笑顔はこんなにも美しい。


「そうか、変な顔か。ははっ、俺、変な顔なんだ」

「うん、変な顔」


そう言って、彼女はまた笑う。
今、俺の目の前には、7年前笑顔を絶やさなかった少女が、美しく成長した姿で存在していた。















舞は俺の膝の上に頭をのせて、膝枕のような状態で仰向けになっていた。


「あまり良い気分じゃないだろうが我慢してくれ」

「ううん、気持ち良いよ、祐一の膝の上。祐一の暖かさが伝わってくるよ」


そう言って、笑顔を向けてくれる。


「……恥ずかしい…な」

「うん」


彼女の白い顔にほんの少し赤がさす。

俺たちは最後の時を互いの温もりを感じて過ごしていた。


「そうだ」


唐突に俺は声をあげた。


「?」

「そう言えば舞の誕生日を祝ってなかったよな」

「……うん」


───俺は胸に忍ばせておいた小さな小箱を差し出す。


「誕生日おめでとう、舞」


不思議そうに俺の手の中にある白い箱を見つめる舞。


「これは何かな?」

「誕生日プレゼントだよ」


一昨日、佐祐理さんと誕生日プレゼントを買いに行った後、一人でもう一度商店街に出向いて買ってきたものだった。


「……開けてもいい?」

「ああ。安物だけどな」


舞は震える指先でゆっくりと箱の包装を解いていく。


「!! ……ゆ、ゆういち、これっ!?」


箱に入っていたのは深い青色の宝石を中央に飾ったシルバーリングだった。


「ちょっと貸りるよ」


舞の手の中からその指輪を受け取る。
そして、彼女の左手の薬指にゆっくりとはめる。


「……ゆういち…」

「うん、よく似合うよ」

「……ありがとう、ゆういち」


舞の瞳からはぼろぼろと涙が溢れ出す。


「お、おいおい泣くなよ、舞」

「ううん。嬉しいから良いの」


舞は涙を流しながら、幸せそうににっこりと微笑んでいた。


「……そっか」


改めて感じる。
俺は舞のことがどうしようもなく愛しい。















「デート、たのしかったよね」

「ああ、たのしかったなぁ」


俺たちは思い出話に華を咲かせていた。


「ゆういちと二人で食べたイチゴサンデーおいしかったよ」


そう言えば、百花屋でいきなり牛丼を頼んだんだよな、舞は。
思わず口元が緩む。


「そうだな。確かその後、ゲームセンターで遊んだんだよな」

「……うん、たのしかった、げーむせんたー」

「お前が予想以上に強くてな、あの時は参った」


初心者であるはずの舞と格闘ゲームをして15回中1回しか勝てなかったんだよな。
……あれは意外に悔しかったかも。


「ゆういちがとってくれた…ぬいぐるみ、だいじにしてるよ」

「そっか。いっぱいとってやったもんな」


結局いくつぬいぐるみを舞にとってやったのか正確には覚えていないが、確か二桁はいっていたような気がする。


「………また、でーと、いきたいね」

「ああ、きっと行こうな」

「うん」


───二人が望めばいつでもデートには行けるんだから。

それきり二人は無言になる。
だけど、それは気まずいわけでもなく、二人に思い思いの時間を与えてくれる静寂だった。
おそらく、今、二人の脳裏に浮かんでいるのは、共に過ごした幸せな記憶。

静かで優しくて、幸せな時を俺と舞は過ごしていた。















「……ねぇ、…ゆう、い…ち……」

「なんだ、舞?」


目を閉じたまま、舞が小さな声で話し掛けてくる。
それに俺も優しく答える。


「…………」

「舞?」


何故か舞が返事をしない。


「…………」

「まいっ!?」


嫌な予感に囚われた。
想像したくなかった現実が頭の中を過ぎる。


「…………」


彼女の身体はその機能を止めていた。

───なのに、静かに瞳を閉じている彼女の姿は、本当に眠っているかのようだった。


「……まだ…こんなに……暖かいのに…」


舞の温もりが俺の体に伝わってくる。

───それでもこの現実は変わらない。



「……まい……」



彼女は笑顔だった。

本当に最後のときまで。



















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