私の悲しみを肩代わりするかのように、雨が降り続けている。
 お気に入りのピンクの傘が、その雫を受け止める。
 私は今、もう二度と来ることはないと思っていたあの空き地で、最愛の人と向かい合っている。
 この人のことを覚えているのは私だけ。

 あの時と同じように始まりは詩子だった。
 『この人だれ?』
 冗談だと思いたかった。
 いつもの詩子の悪ふざけだと思いたかった。
 だけど、現実は確かに彼を侵食していて……。
 詩子は彼のことを忘れた。
 もう一人の幼馴染を忘れてしまった時のように、いともあっけなく忘れてしまった。
 その現実を否定したくて、目を逸らし続けているうちに、クラスの皆が彼を忘れていた。
 彼の幼馴染である長森さんでさえ、彼の存在を覚えていない。
 全く同じだった。
 最愛の幼馴染を失った時と、何もかもが一緒だった。
 私だけが彼を覚えている。
 私だけが彼を待ち続けている。
 私だけが彼を忘れることが出来ずに苦しんでいる。
 そんな日々が続いた。
 永遠に続くかと思われたそんな苦痛だけの日々が続いた。
 だけど、その日々から浩平は私を救い出してくれた。
 もう二度とこんな苦しい思いはしなくても済むと思った。
 幸せな日々が続くと思った。
 浩平と二人で、新しい未来をつくっていけると思った。

 ──でも、現実は残酷で。

 彼もまた、この世界を拒絶した人間だった。
 私の前から消えてしまうことを運命付けられた人。
 また私はこの空き地で、彼を待たなければならないのだろうか?
 救いのない雨が降り続ける世界に、私はずっと留まっていなければならないのだろうか?
 もう嫌だ……。
 嫌だよ……浩平……。
 もう一人は嫌。
 孤独は嫌。
 だから、私は決別の言葉を口にする。

「あなたのこと忘れます」

 言ってみて、どれだけ説得力のない言葉か実感させられる。
 浩平のことを忘れることなんて出来ない。
 自分の最愛の人を忘れることなんて出来ない。
 でも、私は言葉を続けた。

「……名前も」

 折原浩平。私の最愛の人。

「……顔も」

 ぶっきらぼうだけど、いつも悲しい色を携えていた瞳。

「……声も」

 穏やかな気持ちにさせてくれる暖かい響き。

「……温もりも」

 私を包み込んでくれる大きな身体。

「……思い出も」

 掛け替えのない輝く宝石のような記憶。

「……全部忘れます」

 無理だ。絶対に忘れられるわけなんてない。

 私は堪え切れず涙をこぼす。

「……さようなら。ほんとうに好きだった人」

 かすれる声でなんとかそう告げていた。
 そして、私は彼の前から逃げ出した。













茜ルートプラスワン










「……よお」

 数日ぶりに見た彼の顔は少しやつれているような気がした。
 誰からもその存在を忘れられ、彼は住む家すらも追われた。
 私は思わず駆け寄りそうになって、抑える。
 代わりに、誰? と彼に投げかけた。
 涙が流れた。

「クラスメートの名前ぐらい覚えておけ。同じクラスの……」
「知らないっ!」

 私の言葉は彼を拒絶した。
 本当はそんなことをしたくないのに。
 彼は人違いだったと言い、私の前から去っていこうとする。
 その背中があまりにも、不確かで、私は思わず呼び止めていた。
 そうしないと、本当に浩平が消えてしまうような気がしたから。
 彼が足を止める。

「……話……しませんか」

 震える声で、私はそう言った。
 彼は、いつ消えるか分からないけどそれでも良いなら、と言って、私の傘を持って背中合わせに立つ。
 ……暖かい。
 随分と久しぶりに感じる浩平の温もりだった。
 私は浩平に話しかけた。
 私の大好きだったクラスメート。
 初めは疎ましく思っていたクラスメート。
 私を闇から救い出してくれたクラスメート。
 そんな話を彼にした。
 そして、私は彼にプレゼントを手渡す。
 雨で包装はよれよれになってしまったけれど、仕方がない。
 彼は自分が貰っても良いのかと言った。
 私は話を聞いて貰ったお礼だと言った。
 ──初めからあなた以外にあげるつもりはありません。

「開けても良いか?」
「はい」

 彼は丁寧に包装紙を解いていく。
 中身は新品の目覚まし時計。
 この前、彼の家を訪れた時、目覚まし時計が壊れていた。
 彼は寝ぼ助だから、目覚まし時計がないと目を覚ましてくれない。
 彼が包装紙を全て解き終えようとした時。

「折原っ!」

 そんな声が聞こえた。

 私と彼は思わず、その声がした方向に目を向ける。
 そこにはクラスメートの長森さんと、七瀬さんが居た。

「あんた、何やってんのよ! こんなところで!」

 ずかずかと七瀬さんが彼の下にやってくる。

「な、七瀬、俺のことを覚えているのか……?」

 浩平の目が驚きで真ん丸になっていた。

「何言ってんの? 当たり前でしょう。それよりも、何日も学校サボって何やってたのよ!?」

 私は今、どんな表情をしているのだろうか?
 七瀬さんが浩平のことを覚えていた。
 私だけしか覚えていないと思っていた彼のことを。
 もしかして、浩平は消えなくても済む……?

「って言うかね、瑞佳にまで無視されて、あんた何やったのよ?」

 長森さんが申し訳なさそうに近づいてきて、小声で七瀬さんに知り合い? と聞く。
 ……やっぱり、長森さんは彼のことを忘れていた。
 微かな希望は即座に否定されてしまった。
 なら、七瀬さんが浩平のことを覚えているのは……。

「ほらっ、見なさい。最近ずっとこんな感じよ。さっさと謝っちゃいなさいよ」
「ま、待て、七瀬! 耳をひっぱるな、痛い痛い」
「土下座して、ごめんなさいって瑞佳に言いなさい」

 浩平が長森さんのことを見上げる。
 長森さんは困ったように、彼を見知らぬ他人を見るような瞳で見ている。
 実際、今の彼女にとっては赤の他人なのだろう。

「留美……?」

 どうして良いか分からず長森さんは七瀬さんの名を呼ぶ。

「瑞佳、許してあげなさいよね。こんなんだけど、あんたの幼馴染でしょう?」
「ええとね、留美。私に幼馴染なんていないよ……?」

 七瀬さんはため息をつき、いいから謝りなさいよ、と浩平に投げかけた。
 ……状況を把握するに、七瀬さんは浩平が皆から忘れ去られていることに気付いていない、らしい。

「すまん、七瀬。とりあえず、それは後回しだ」
「はぁ? 後回し? 何言って……」

 浩平は私からのプレゼントを開けた。
 無理やり話を戻したらしい。

「目覚まし時計だな」
「はい」
「食べられそうにもないな」
「無理をすれば大丈夫です」

 何となく脈絡のない会話のような気もしたが、私は浩平との最後の時間に再び戻ってきた。

「……? ええと、里村さんだったっけ?」
「うん。同じクラスの里村さんだよ」

 七瀬さんと長森さんは私たちから微妙に離れた場所で、私のことを話している。
 驚いたことに、今頃私の存在に気付いたらしい。

「……君の誕生日に何かプレゼントする」
「……はい」

「何やってるんだろう? 二人して」
「劇の練習かな?」

「…………」
「…………」

 私は涙に霞む声で、自分の誕生日を告げる。

「私の……誕生日は……」

 ごめんな、茜。
 最後にそんな声が聞こえたような気がした。
 カタッと言う音がして、振り返ると、そこには私のプレゼントした時計だけが悲しく存在していた。

「え? 折原?」
「え? え? 人が消えちゃったよ。手品?」

「……浩平……?」

 私は震える声で、彼の名前を呼んだ。

「……嫌だよ……」

 浩平から返事はなくて。

「折原ー、どこに隠れてんのよ? まったく、もう」
「里村さん……?」

「……どうして……私を置いていくんですか……」

 涙が止まらない。

「……こうへい……っ!」

 私は悲しみの中、彼の名前を呼んだ。

「え? どうしたの?」
「里村さん……大丈夫?」

 クラスメート二人が私に駆け寄ってくる。
 私はそんな二人を見て、ぽつりと一言洩らしていた。

 ……正直に言うと、邪魔でした。

 私は微妙に悲しみに浸ることが出来ず、そんなことを思うのだった。










『ごめんな、茜。こんなグダグダで』

 浩平は消える寸前、そう言っていた。










 半年後。
 私と七瀬さんは以前よりも親しくなっていた。
 そして、私は七瀬さんに浩平のことを話した。
 でも、彼女は私の言葉を信じようとはしない。
 未だに、七瀬さんは浩平の存在を皆が忘れてしまったことに気付いていない。
 あまつさえ、あの日のことを、自分を驚かすために今も浩平が隠れているのだ、と言ってしまう始末。
 ……浩平。そんな風に思われるだけ、どんな悪戯を七瀬さんにしてきたのですか?
 あの空き地で、彼の帰りを待つ度にその疑問が頭を過ぎる。



 浩平が消えてしまってから一年の歳月が流れていた。
 流石に七瀬さんは浩平が皆から忘れられ、この世界から消えてしまったことに気付いたらしく、明らかに元気をなくしている。
 私はそれに共感を覚えなくはないが、それよりも彼女のマイペースぶりにため息をつきたくなった。
 いくらなんでも気付くのに時間が経ち過ぎである。



 晴天の下、私と詩子と……七瀬さんが公園を歩いている。
 詩子と七瀬さんは妙に馬が会ったらしく、知り合って数日で親友と呼べる関係になっていた。

「茜、茜。あの雲、シュークリームみたいで美味しそうだよね」
「あたしはジャガイモに見えるけど。そうよね? 里村さん?」
「そっかな? やっぱりシュークリームだと思うけど」
「ジャガイモよ、ジャガイモ。雲すらも想像力を働かせて見る……ふっ、乙女にしかなせない業ね」
「ジャガイモは乙女っぽくないけどね」
「え? そうなの?」

「はぁ」

 まるで詩子が二人居るようで、頭が痛くなってくる。

「そう言えばさ、茜のクラスって三年生になる時、クラス替えなかったんだっけ?」
「……はい」

 話の流れが、いつの間にかクラス替えの話になっていた。

「変な学校だよね」
「そうですか?」
「うん。だって、新しい人居た方が絶対おもしろいって」

 去年のことが随分昔の話のように思えた。
 たった一年前のことだったのに。
 ……彼のことも随分、昔のことのように感じる。
 まるで何十年も離れていたかのように、遥か昔だったような気がする。
 ……浩平。
 せつなくて、私は心の中で彼の名を呼んだ。

「でもさ、クラス替えがなかったってことはまたあいつと同じクラスだったの?」

「……え?」

「そう言えばさ、随分長いことあいつの顔見ないよね」

 まるで私の鏡写しのように、詩子の隣に居る七瀬さんの表情が変わる。

「賑やかで、騒がしくて……」

 詩子は彼のことを思い出していた。
 そして、それは……。

「……居ないと……寂しい……?」

「ううん、あたしは全然寂しくない」

「……私は……私は寂しいです」

「……茜……?」

 私は泣いていた。

「る、留美!?」

 七瀬さんが涙と一緒に、他のところからも類似のものを流していた。
 七瀬さんからぐすっとしゃくりあげる声がした。

「ああっ! やっぱりね、あいつは噂をすると現れるような奴なのよ」

 詩子が指差す方を向くと、少し照れくさそうに頭をかく私の最愛の人。
 私は嬉しくて、涙をぼろぼろこぼした。
 そして、駆けていく。
 あの人の胸を目掛けて。

「こうへ──」
「折原ーーーっ!!」

 ……七瀬さんが私よりも早く、浩平の胸に飛び込んでいた。

「お゛り゛は゛ら゛〜、もうほんとに心配したんだからっ!」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした七瀬さんが、浩平に怒鳴るように語り掛ける。
 ……私の台詞。

「お、おい、七瀬……」

 浩平が困ったように、私のことを見ている。
 私も、どうすれば良いのか分からず、二人から中途半端な距離を保っている。

「折原ー、もう離さないからっ!!」

 七瀬さんが浩平のことをぎゅっと抱きしめる。
 ……私の役割。

「わ、分かったから、離れろっ、七瀬!」

 浩平が七瀬さんを引き離そうとするが、七瀬さんは浩平から離れない。

「あれま。あの二人って付き合っていたの?」

 私は無意識のうちに詩子を睨みつけていた。

「あ、茜……? こ、怖いんだけど」

 詩子が私から後ずさる。

「折原、折原」

 七瀬さんが浩平に自分の身体を押し付けていた。

「あ、茜。ただいま」

 七瀬さんから逃げ出すことを諦めた浩平が、ぎこちなくそう言った。
 ……こんな状況でその台詞を言われても困ります。
 でも、私は複雑な心境ながら、心から浩平の帰りを歓迎した。

「おかえりなさい、浩平」

 最高の笑顔を彼に向ける。
 そして、彼も最高の笑顔を私に向けてくれた。

「折原ー」

「…………」
「…………」

 七瀬さんがますます浩平の身体に密着しているような気がする。
 そんな彼女に困ったような表情を向ける私と浩平。
 意味が分からなく呆然としている詩子。

 浩平が帰ってきてくれたのは良いが、色々と問題が山積みのような気がする。
 解決のためには、何から始めれば良いだろうか?
 とりあえず、やることは決まっていた。
 私らしくないと思ったけど、黙っていることも出来なかった。
 まずは浩平と、七瀬さんを引き離すことから始めよう。

 私は再び浩平の下へ向かっていく。

 ──浩平を抱きしめるのは私の役目です。
 ──七瀬さんには譲ることは出来ません。

 そう心の中で呟きながら、私は浩平に抱きついた。
 七瀬さんが驚いて、浩平から離れる。

 ──七瀬さんには負けません。

「さ、里村さん……?」

 彼女の瞳が、浩平を放したくないと言っていた。

 でも、私はそれを許すわけにはいかない。



 ──だって、私はこれから、浩平から誕生日プレゼントを貰わないといけないから。



 ──そして、ずっと手放す気もありません、よ。