長森にすら忘れられた。

これで俺はこの世界で完全に一人ぼっちだ。

もう、俺のことを覚えている人なんて居ない。

俺のことを心配してくれる人なんて居ない。

俺のことを探してくれる人なんて居ない。

俺のことを──。

そう。

分かっていたんだ。

折原浩平という人間が始めから居なかったことなんて。

だから、これが世界の正しい姿なのかもしれない。

俺だけが排除された世界。

折原浩平が存在してはいけない世界。

なのに。

俺はまだここに居る。

早くこの世界から逃げ出したいのに、俺はまだここに居る。

早く、永遠を手に入れたい。

ここには永遠はない。

あるのは孤独だけ。

だから、余計に思ってしまう。





──孤独とはこんなにも辛いことだったのか、と。












孤独な世界










叔母が仕事で家を空けている時だけ、俺の部屋だった場所を使わせてもらっている。
既に室内の家具は全て取り払われていたが、寒さがしのげるだけありがたかった。
体を幾分休めたら、叔母が帰ってくる前に家を出る。
学校に行くわけにもいかないので、街中をふらつくことで有り余った時間を消費する。
寒ければゲームセンターや本屋で時間を潰し、腹が減ったら喫茶店かどこかで食事をする。
幸いにも懐具合はまだ良好だった。
そして、また叔母の家に戻り体を休める。
ここ数日はそんな虚しい日々の繰り返しだった。


今日もまた街中をふらついている。
いつものように商店街を目的もなく歩く。
通り過ぎる人は誰も俺に気付かない。
視線が合うことない。
彼らにとって俺は空気にしか過ぎない。
俺にとっても彼らは空気にしか過ぎない。
こんな状況になる前から、見知らぬ人に関心を向けないのは皆の暗黙の了解だった。
それは今だって変わっていない。
だから、当たり前のことなのだ。
俺が誰からも忘れられようが忘れられまいが、他者にとって空気であることに変わりない。
なのに、今はその事実がどうしようもなく辛い。


俺はどこかの店に入ることなく、商店街をふらついている。
足が自動的に動いている。
頭が絶えず要らない思考をしている。
それはどこまでも陰鬱な思考だったが、ようやくまともな思考に切り替わる。
そして、単純な疑問がそこから浮かぶ。

俺はいつになったらこの世界から消えることが出来るのだろうか?

もうすぐだ。
何となくだがそれが分かる。
俺はあと少しでこの世界から消える。
消えることが出来るのだ。
そして、永遠の存在する世界に俺は行く。
その考えに、少しだけ心が躍った。


再び、俺の思考は陰鬱なものになっていた。
俺が消える時が近いせいか、この世界に苦しみだけを感じてしまう。
そうなると、嫌な記憶だけが甦ってくる。
幼き日の別れから始まり、知り合いから自身を忘却されたあの瞬間までに続く、苦痛の連鎖。
その記憶が俺をどうしようもなく苦しめる。
生きる気力を失わせる。
いや、俺は既にこの世界では死んでいるに等しいのか。
そう思うと、何もかもがどうでもよくなった。
ほんの少しだけ残っていた気力というものさえ失われていく。
俺は道の端に座り込んだ。
もう動きたくなかった。
消えることが出来るのなら、早く消えたい。
もうこの世界は嫌だった。
俺にとって救いのないこの世界は地獄に等しい。
友人達と笑いあえていたあの日はもう戻っては来ないのだ。
輝かしい過去が俺に絶望を与える。
そんな過去があるから俺は今こんなにも苦しいんだ。
あまりにも当たり前すぎる日常を送っていたから、耐え切れなくなるんだ。
もう、嫌だった。
何もかも嫌だった。
ほら、今だってこんな俺に気付いている人は……。


「あ、あの、大丈夫ですか……?」

声を掛けられた。
どんな感情よりもまず、驚いた。
本当に呆然とした顔をしていたのかもしれない。

「その、もしかして具合が悪いのですか?」

顔を上げる。
もしかしたら、と言う思いがあった。
この声に聞き覚えがあったから。
あまりにも聞き覚えがありすぎて、今は懐かしい声。
でも、心のどこかでその可能性を否定していた。
それはありえないことだったから。
だけど。

「……長森……?」

驚きのあまり、思わず呟いていた。
目の前に居たのは、最後まで俺のことを覚えていてくれた少女。
幼馴染の少女。
いつも俺の世話をやいてくれていた少女。

「え、ええと……顔色がよくないですし、私に何か出来ますか?」

俺の呟きは小さ過ぎて長森には届いていなかったようだ。
久しぶりに人に話しかけられた喜びは確かにあったと思う。
でもそれ以上に、長森のその口調が悲しかった。
もう、俺達が他人同士になってしまったことが悲しかった。

「そ、その……うーん、困ったんだよ」

長森が一人でおろおろしている。
俺が何も反応を返さないから困っているらしい。
だけど、今の俺は彼女にかける言葉など持っていない。

「あっ、もしかして立てないのですか? その、私の肩に掴まってください」

長森が背中を向けてしゃがみ込む。
馬鹿だろ、お前。
見知らぬ人間相手に何をしているんだか。
酷いことをされるかもしれないだろう?
俺が危険な奴である可能性だってあるんだ。
もう少し世間っていうものを理解しろよ。
それにその細い肩なんかに掴まったら、お前が倒れてしまうだろ。
自分の力がどのくらいかなんて分かっているだろうに。

「遠慮はいりませんよ。これでも力持ちですから」

嘘つくな。
まったくお前は馬鹿だよな。
本当に馬鹿だよ。

「……なんで、そこまでしようとする?」

長森に声を掛けるのに、多大な努力と勇気が必要だった。
だけど、それはどうしても聞いておきたかったことだ。
俺達は知らない奴同士なのに、何故こいつは見ず知らずの人を助けようとする?
俺は幼馴染の折原浩平じゃないんだぞ。

「えっ? 具合悪そうだったから、かな?」

長森が俺の方へと顔を向ける。
唐突な質問だったからか、長森は少し混乱しているように見える。
それでも、答えは返してくれた。

「具合悪そうだったら、誰でも助けるのか? ……お前は?」

少し怒ったような口調になってしまったかもしれない。
それでもこいつは躊躇うことなく。

「当たり前だよ。誰かが苦しそうにしていたら、助けてあげないといけないんだよ」

さも、当然のように長森は言う。

「それよりも……、ごめんなさい少し失礼します」

長森の暖かな手の平が俺の額に触れる。

「わっ、大変だよ。え、ええと、熱ありますよ」

長森が再び背中を俺の方に向けてくれる。
今更だが、体が上手く動かないことに気付く。

「背負うのは無理かもしれませんが、肩を貸します。病院に行きましょう」

至極真面目な声で長森が言う。

「あっ、でも救急車とか呼んだ方がいいのかな。うーん、うーん、困ったんだよ」

長森が一人で唸っている。
どんな時もどこかマイペースなところがこいつらしい。

そう思うと。
涙がこぼれてきた。


「はははは……」

「えっ、その……?」

笑いまで出てきたよ。
だってさ、今頃気付いたんだぜ。
まったく、俺は馬鹿だよ。

「どこか痛いんですかっ!? 大変だよ、大変だよ」

あたふたと慌て始める長森。

「あれ? 長森さん、どうしたの?」

向こうから見慣れたツインテールがやってくる。
ははっ、七瀬まで現れたよ。

「あっ、七瀬さん。ええとね、ええとね、この人熱があって、具合悪くて、病院なんだよ」

「はぁ?」

「とにかく、この人を病院に運ばないと大変なんだよ。七瀬さん、手伝ってほしいよ」

「……確かに具合悪そうね。うん、手伝うわ」

七瀬が俺の顔を覗き込む。

「長森さんは右側をお願い。あたしはこっちね。──ほら、あたしに掴まって」

七瀬が俺の左腕を肩に掛ける。

「うん、掴まって」

長森も俺の右腕を持ち上げる。
きっと、救急車を呼ぶとかそういう話はもうどこかに消え去ってしまっているのだろう。

「──手伝います」

若い男の人が俺のところにやってくる。

「俺の車が近くにありますから、そこに運びましょう」

すぐに状況を判断したのだろう、その男性がそう言って俺のことを背負うとする。
その人は本当に俺と面識のない人だった。

「あ、ありがとうございます」

長森がその男性に礼を言う。

「──何か手伝えることはありますか?」

通りかかった学生がそう長森達に言ってくる。

気が付けば、俺を助けようと何人もの人々が集まっていた。





──なんだ。


──この世界もまだまだ捨てたもんじゃないじゃないか。





そんな簡単なことに今頃、気付いてしまったよ。
気付くのが遅過ぎたのかもしれない。
本当に俺は馬鹿だよ。
ただ一人でこの世界を嫌ってさ。
勝手に救いようがないものだと思い込んで。

それが違っていることに気付かなかった。



呼んでいる。

呼ばれている。


『永遠はあるよ』


この世界ともお別れか──。



俺、最後まで馬鹿だったよ。


「あ、あの、大丈夫ですか?」


でもさ、思ったんだ。


「ちょっと、しっかりしてよっ!」


これってもしかして、掛け替えの無いことなんじゃないかな。


「おいっ、君!」


俺が消えていく。


「しっかりしてくださいっ」


この世界から消えていく。

だけど、ただ消えていくのでは意味がない。


俺は目の前に居る人々の姿を。


この世界の姿を。


目に焼き付けた。



そして、もう一度思う。















──ああ。



──世界はこんなにも優しい。