世界が真夏に向かって、着実に進んでいるのを感じる今日この頃。
日曜の休日、俺は澄みきった青空の下をのんびりと歩いていた。
この天気のおかげか気分が良かったので、散歩を決め込んでいるというわけだ。
特に目的もなく、こんな風にゆったりとするのも悪くはないと思う。
心がどこか穏やかになれるのが何とも良い。

──などと考えながら歩いていると、見知った顔があるのに気付いた。

相手の方も俺に気付いたのか近づいて来る。
……その表現は少し妥当ではないような気がした。
砂ぼこりをあげて近づいてくる女性。
なんと言うか、近づいて来るというよりは突進して来るといった方が正しい気がする。


「相沢さん、恋人になってください!!」


開口一番、彼女はそんなことを言った。


「──────はいっ!?」


……俺の耳はおかしくなってしまったのだろうか。今、恋人になったくださいと言われたような気がする。
たぶん幻聴だとは思うが、その幻聴の変な内容のせいで、頭の中が少しの間空白になる。


「ありがとうございます」


そのブランクが悪かったのか、嬉しそうに彼女は礼を言っていた。


「いっ、いやいや、待て。今のは違う」

「何が違うのですか?」


もちろん、恋人うんぬんの話のことである。
……この際、幻聴でなかったことは認めなければならないだろう。


「それは…その告白、なのか」

「違います!」


予想に反して、違うとの答え。
……そうなると話が全く見えてこないのですが。


「でも、恋人になってくれって───」

「はい、言いましたよ」


いとも容易く言ってくれる。


「実はですね…」


彼女こと天野美汐は事の顛末を語り始めた。











ある晴れた日の出来事










「──────はぁ」


湯飲みを膝の上にのせて、ため息をひとつつく。
何故か俺は純和風の家の縁側でお茶を飲みながら、目の前にある池と青空を眺めていた。


「相沢さん、和菓子はお好きですか」


俺の隣にいる天野がようかんを手に持って、訊ねてくる。


「いや、甘いのは──」

「私の手作りです」


苦手だ、と言いかけ言葉を寸前のところで呑む。


「…喜んでいただきます」


お口に合えば嬉しいんですけど、と言いながら天野はようかんを皿に切り分けて俺に渡す。

とりあえず、一口食べてみる。
思ったよりは甘くなかったので、そのままお茶と一緒に二口、三口と食べていく。


「良いお天気ですね」


隣で正座をしている天野もようかんとお茶を手に、この穏やかな時間の中に身を寄せる。


「そうだな」


みーん、みみん、みーん


真夏にはまだ日はあるが、セミの夏を伝える声が聞こえる。

──本当穏やかだよな。

あまりにも穏やかでのんびり過ぎて、心が少し歳をとってしまうような錯覚を覚えた。
どうでもいいことだが、今時、良いお天気ですねと言う女子高生は珍しいのではないだろうか。


「相沢さん」

「ん」

「…その、感謝しています」


頬を朱に染めて、天野は言葉を伝えてくる。

──少し伏せがちの顔がどこか初々しくて可愛かった。


「まぁ、困ったときはお互い様だろ」

「……そうですね。肝に銘じておきます」


肝に銘じておくのは少し違うような気もするが、とりあえずはそう言うことだ。
別に天野が気にすることではないし、俺も気を使われても困る。
……しかし、天野に言われてさっきまで忘れていたあのことを思い出してしまう。


「はぁ…」


少し憂鬱になった。


「どうしたんですか」


天野が俺の顔を覗いている。

──そうだな。さっきはあんなことを言ったが、やっぱりあのことについて再度確認する必要はあるだろう。


「なぁ、天野。本当にこんなことをする意味はあるのか」

「はい。まずは母と父によく知ってもらう必要がありますから」


……まぁ、なんとなくそんな答えが返ってくるだろうとは思っていたんだけどな。


「───はぁ。良いけどな別に」


ため息と諦めに似た言葉を一つ。

ちなみにあのこととは先日の天野の『恋人になってください』発言のことであった。
天野の話によると、彼女は近いうちにお見合いをする事になってしまったのだそうだ。
だけど、気は進まず出来れば断りたいと考えていたらしい。
天野の家は古くから続く伝統のある家元で、縁の深い家とは付き合いを無下することは出来ない。
今回の相手方もそういう部類らしく、天野はその話を断るにも断ることが出来なかったそうだ。
しかも、彼女の両親はその縁談にえらく乗り気で断れない雰囲気に輪をかけてしまっていた。

だから、天野はどうにかして断る良い手はないかと考えた。
そこで俺が登場する事になる。
彼女の考えと言うのは自分に恋人がいるとでっち上げると言う事だった。
そうなれば、彼女の両親も相手方も納得するとでも考えたのだろう。
ここで問題となるのが相手役。
とりあえず言わせてもらうと、天野の交友関係は極端に狭い。
その中で男性を探すとなるとかなり限られてくる。
それで何かと縁のあった俺に白羽の矢がたったらしい(もっとも男の知り合いは俺だけだったようだが)。

そんなわけで、俺と天野による恋人ごっこが始まった。
一週間ぐらい前から、毎日のようにこうして天野の家に入り浸り、彼女の両親に仲が良いことをアピールしている。
そのかいあってか、天野の両親に俺は恋人として認められたらしい。
もちろん、縁談の話もなかったことになった。

そう言うわけで、全ては解決したはずだったが、天野は保険のためだとかなんだかと言って、恋人ごっこを続けてほしいと主張した。
俺の方もそれもそうか、と何となく納得してこうして付き合っているわけだが───


「落ち着きますね」

「…ん、ああ、そうだな」


まぁ、そんなことをごちゃごちゃ考えてもどうしようもないわけで、俺はこの雰囲気に再び身を任せることにした。


うな〜


ふと、猫の鳴き声が聞こえたような気がしたので、周りを見渡すと、縁側の下、影の部分に子猫が佇んでいた。


「その猫、飼ってるのか」


天野の足元にじゃれ付いてくるそいつを見て、俺は訊ねる。


「いえ、野良猫ですよ」


うな〜うな〜


───何となくその子猫は似ている気がする。


「────そう言えば、一時期、俺も猫を飼っていたことがあったな」


懐かしむように俺はそう呟いていた。
猫の名前はピロシキ。通称ぴろだ。
俺と天野が越えてきた過去の忘れ形見の一欠けらでもある。


「そう言えば、あいつ今、どうしてるのかな」

「…きっと元気だと思いますよ」


天野も昔を懐かしむように、少し感傷のこもった声で答える。
何となく、この場の雰囲気が悲しいものに囚われ始めている気がする。


「天野くん、その根拠を原稿用紙200枚以内で述べなさい」


俺はそれを誤魔化すためにそう言っていた。


「そうですね、何となくです」


そう言って、天野は笑顔を浮かべていた。


「───何となく、か」


そうだな、過去は悲しかった事もあったけど、それを俺たちは乗り越えて生きているんだ。
だから、今は笑えるんだよな。


ずずっ


お茶を一口すする。
お茶の良し悪しなど俺にはよく分からないけど、このお茶は美味い気がする。


「良いお茶ですね」


そんな俺の心境を読んだかのように天野もそう感想をもらす。


「そうだな」


さあ、そろそろいい時間だな。
見ると、空が若干朱い色に染まってきている。


「それじゃあ、俺、そろそろ帰るよ」

「お夕飯を用意してますが」


……手際早いよ。


「でも、なぁ───」


実は天野家に入り浸るようになってから、天野の家では俺のために毎日夕食を用意してくれていた。
彼女の母親は娘の恋人なんだから遠慮することはない、と言ってはくれていたが、それはあくまで演技なために少し心苦しかった。
それに俺はまだ水瀬家で居候をしている身だ。
そう毎日毎日、夕飯をこっちで頂いてしまうと、天野家にも水瀬家にも迷惑がかかってしまう。
だから、ここは自重をしなくてならない。

俺が無言でいると、天野は少し顔を曇らせて


「いえ、出すぎた真似でしたね。相沢さんには相沢さんの生活があるのですから……気にしないで下さい」


などと言っていた。
物凄い罪悪感を感じる。
しかも、心なしか天野は機嫌が悪いと言うか何と言うか……。


「────その、怒ってる?」


理由はよく分からないが。


「気のせいです。───相沢さん、今日はありがとうございました」

「い、いや、気にしなくてもいいぞ」


あまりにも普段どおり過ぎる天野が逆に怖い。


「そうですか。それでは明日もよろしくお願いします」

「………」


俺的には徐々に回数を減らしていった方が、お互いの今後を考えると良いような気がするのですが。


「…その…明日もですか? 天野さん」

「はい。…あと、出来れば美汐とお呼びください。──祐一さん」










次の日


「お茶が美味しいですね」

「そうだな」


今日も微妙な二人の関係は続く。