意識が暗闇に染まっていく。
何故か身体には全く力が入らなかった。
このまま、意識を手放してしまえば永遠に自分は目を覚ますことはない───そんな錯覚を覚える。
非常にまずい状況だということは自覚している。だが、我が身に起こっている現象を止めることが出来ない。
黒へと移り変わっていく意識。
それと同時に五感のほとんどの機能も麻痺していく。───それを意識したときにはもう、痛覚、声、嗅覚は既に失われていた。視覚は微かに薄暗闇を映すが───ブツリとテレビの電源が切れたかのようにたった今失われた。
そして、自分に残された人としての能力は音を聞き取ることだけであった。

────カツン────

無機質な廊下に響く音。それは誰かの足音なのだろうか。──分からない。

────カツン──カツン──カツン──カツン─カツン

その音はゆっくりと大きさを増して、近づいてくる。


音は唐突に止む───おそらくはその音を発生させていた何かは自分の直ぐ近くにいる。
聴覚とよく分からない勘のようなものが自分にそれを教えてくれた。

「よう、北川」

声───自分の正面には誰かが確かにいた。
それは聞きなれた声のような気がする。だけど、それが誰なのか、男なのか女なのか、本当に聞きなれている声なのか、全く分からなかった。

「ふーん、死にそうなのか、お前」

声を認識することは出来る。しかし、聴覚以外の感覚は全て死んでいるためそれ以上の情報を得ることは出来ない。そもそも、自分は立っているのか倒れているのかすら分からないのだ。

「──それじゃあ、俺が楽にしてやるよ」

言葉と動作は同時だった。

グサッ

声と共に鈍い──何か言い知れぬ不吉さを感じさせる音が耳の中に響く。

「ぐっ───」

機能を失ったと思っていた声が俺の口から洩れる。
さらに不思議なことに、鋭い痛みが腹部に伝わってくるのを感じる。

「さようなら───北川潤」

俺は失われていく意識の狭間で、その声が酷く冷たく無機質に思えた。





































「祐一の彼女さん その10」

Written by kio











───始まりは些細なことだった。
午後8時──月がその美しさを見せ始めるその時間、俺は学校の近くの道を通っていた。
おそらく、その道を通ったのはバイト帰りだったからだと思う。
ふと、何気なしに微かな街灯と月明かりの射す校舎に目をやる。
思えば本当に偶然だった。
あの薄明かりの中で彼女の姿を確認できたのはある意味奇跡だったのだろう。
学校の中へ吸い込まれるように入って行く一人の女子生徒。
彼女はひどく見知った姿をしていた。
その視覚情報に間違いはないと言う確信があった。
彼女───美坂香里が学校の中へと入って行くのを、俺の目は確かに捉えていた。
俺は疑問を抱きながらも、彼女の後を追っていた。それはひどく自然な行動に思えた。
おそらくは夜の女性の一人歩きは危険だ、とかそういう理由も頭の中にはあったんだと思う。だが、それ以上に俺は彼女を追いかけることが一番相応しいと感じていた。だが、何に対して相応しいと感じているのか。答えは出せない。それほどまでにこの事は自然につくられていた。───そう、つくられていた。



一時間ほどの時間が流れただろうか。
校舎の中に入っても香里の姿を見つけることは出来なかった。───その一時間、彼女はもう家に帰ってしまったのだ、と何度も自分に言い聞かせていた。だが、何故か俺はまだここに留まっていた。深い闇が支配する学校に薄ら寒いものを覚えている自分。そんな自分が存在していると言うのにこの場から離れることはない。──不思議だった。
頭では理解しているのに、その他の部分は気付かないふりをして彼女を探すのを止めようとはしない。

さらに一時間たった頃であろうか、いくら探しても彼女を見つけることが出来ず、ようやく俺は家へ帰ろうという思考が働いていた。
だが、何故か俺は出口である玄関に向かおうとしても、どうしてもそこに辿り着くことが出来ずにいた。流石にその異常性は認めざるを得ない。───いや、このときになってやっと何かの異常性を認識した俺こそが異常なのかもしれない。
そして、それを十分に意識する間も無く、あの化け物たちが襲ってきた。記憶に刻むをえない異形の姿。脈絡もなく、何もないところから現れるそいつ等はただ純粋に恐怖と死の可能性を訴えかけてくる。
半透明で宙に浮かんでいるゴーストのような奴、ゾンビのようにさまよい歩く人型の何か、そんな奴等に対して俺は────と思った。



────────────目の前にはいつの間にかこの学校の生徒会長がいた。
空白。何故かその景色を目にするまでの過程が抜けている。自分が化け物たちから逃げていたことは、息の切れぐらいや生々しい我が身の傷痕から容易に想像はついたが、ここに記憶の欠落が存在していた。
だが、その記憶の欠落があろうとなかろうと何かが俺の内面と外界で始まっていたことは確か。俺は流されるままに全てを否定し、受け入れていた。



────そして、記憶は赤の力を得たあの瞬間へと回帰する。





















誰かの温もりを感じる。
背中から伝わる心臓の鼓動。
とても安らかな気持ちになれた。その温もりが俺に安心を与える。
──────ゆっくりと瞳を開く。
薄暗闇の中、女性の顔が俺の右肩越しにあるのを確認する。

「あっ、目が覚めたんだね」

間近で声が聞こえる。
目覚めの思考から、急速に通常の思考へと移行していく。

「!? ……どうして、あなたが」

驚き。
そこに居たのは顔見知りの女性の姿だった。

「うんうん、大丈夫そうだね」

「川澄…先輩?」

思考がまた真っ白になっていく。それは先ほどまでの思考の沈滞とは違うものだ。

「君はね、物凄い怪我をしていたんだよ」

笑顔で川澄先輩は説明していく。
だが、その言葉は全く俺の頭に入ってはこない。……何と言うか彼女の吐息が俺の頬に…その、かかると言うか…

「最初私が見たときは本当に駄目かと思ったぐらい、酷かったの」

……そ、そうだ冷静に考えてみよう。この思考をしている段階で冷静ではないような気もしなくはないが考えないことにしよう。
え、ええと、何かと最近縁のある川澄先輩が何故かここに居て、
───背中から川澄先輩の体温を感じる───
!? 突如過ぎった思考がまた俺の頭を真っ白にしていく。

「──それでね…って北川くん、もしもーし」
「─────────あっ、はい!!」

そ、そうだ川澄先輩の話に集中しなければ。

「まだ、傷が痛むのかな?」

傷。
川澄先輩の告げたたった一言のワードが俺の頭の中をクリアにしていく。
一時的に欠落していた記憶のピースが形を作っていく。
思考の熱は消え、冷静な自分がよみがえる。

ここに来て、俺はやっとこの状況の不自然さを考えることが出来た。

「──俺の傷を治してくれたのは先輩なのか」

記憶が偽りのものでないなら、俺の体は全身傷だらけで───致命傷の部分もあるはずだった。
だが、現実に今、自身を見渡しても傷のようなものは見当たらない。もちろん五感全てが機能を取り戻し、痛みも消えている。

「そうだよ。私には人の傷を治せる不思議な力があるんだよ」
「そうだったんですか」

あまりにも最近、非常識なことが多いため川澄先輩の言葉を疑うという考えはなかった。
それに常識的に考えてもこんな短時間であれだけの傷を直す手段はあるはずがない。

「でも、どうしてここに」

俺の口は自動的に質問を形にする。それほどまでに単純で根本的な質問である。

「それはこっちのセリフでもあるんだけどね」

確かに。
普通で考えるなら先輩の方もそのような疑問を持つのが自然である。
とりあえず、この場は俺の方から言うのが礼儀であろう。

「友達が学校の中に入って行くのを見て、それを追って来たんです」

自分でその理由を口にしてみると、何とも単純であることを思い知らされる。

「そうなんだ。私はね……ちょっと深い事情があって」

そう言って先輩は言葉尻を濁らせた。

「す、すみません。無理に話さなくて良いです」
「ごめんね」

誰にも言いたくないことは一つや二つ必ずあるものだ。だから、俺はそれ以上深入りはしなかった。
それよりも、気になることがある。それはこの場で訊ねる質問と言うよりは、単純な疑問だった。

「その、相沢は知っているんですか」
「うん。祐一は私の彼氏さんだから知ってるよ」

いともあっさりと彼女は告げた。

「でも、川澄先輩をこんなところに一人で居させるなんて、あいつは何を考えているんだ」

彼氏を名乗るならその相手となる女性の安全を守るのが当然だ、という考えが俺の中には昔から根付いている。そのため相沢には少なからず怒りに似た感情を覚えてしまう。
だが、川澄先輩はやんわりと俺のその言葉を遮る。

「今日は特別だよ。いつもは祐一も一緒に居てくれるの」
「いつもは…と言うことは、先輩はいつも夜、学校に来ているんですか」
「うん、そうだよ」

正直、その答えは俺を驚愕させるにあたる。
何しろ俺にとって夜の学校はもはや怪談などで使われる恐怖の舞台などではなく、命のやり取りが繰り広げられる血なまぐさい場所へと変化を遂げていたからだ。

「そ、それじゃあ、あの化け物も見たことが」
「──あいつは魔物」

あまりにも冷たい彼女の言葉。
川澄先輩はゆっくり立ち上がり、歩を進め、少し離れたところから俺を見下ろす。

「えっ?」

そのあまりの変貌ぶりに俺は疑問しか浮かべることが出来ない。
川澄先輩の表情は影となっていて見えないのに、彼女の表情が怖い。

いや───俺はそれ以上に彼女の雰囲気に恐怖しているのかもしれない。

「あまり、夜に学校には来ないほうが良いよ」
「……その、川澄先輩?」

川澄先輩は先ほどの冷たい口調が嘘だったかのように、いつも通りの明るい口調で告げる。

「それじゃあ、バイバイ」
「か、川澄先輩…」

川澄先輩は俺の言葉が聞こえていないのか遠ざかっていく。
やがて、その姿は闇の中へと消えた。



「………」

一人となり、俺は闇と月明かりの均衡を保つこの世界を見渡す。

そこは普段なら多くの人々がいるはずなのに、今は誰もいない。

そこはいつも誰かの笑顔があるはずなに、今は存在しない。

そこは──────あまりにも静か過ぎた。

つまるところ、ここは今別世界なのである。
夜という未知が作り出した空間がここなのである。
───何故か──普段は考えもしないようなことを考えてしまう。
それは一篇にたくさんのことがあり過ぎたせいだろうか。

それとも───先ほどの彼女がこの空間に似ているからだろうか───

俺は自分が何者かに殺されそうなった、と言う事実をも忘れて考え続けていた。































もどる?