心拍数が上がっているのが自分でも分かる。

最悪の状況だった。

そもそもこれは現実なのか。現実にしてはあまりにも現実味に欠けていた。しかし、その反面、矛盾しているかもしれないが確かな現実感を感じている。それでも俺はこの現実を受け入れたくはなかった。


「……う、嘘だよな」


闇一色の空間で煌く、鈍い銀色の光。それがゆっくりと迫って来る。

刹那、俺の目の前を銀色の線が走る。


「くっ…」


咄嗟に後ろへと跳んだが、俺の右肩は軽く引き裂かれていた。重症ではない。だが、無視して良いほどの傷でもない。

ゆっくりと鈍く赤い血が流れ出す。


「なあ、冗談だって言ってくれよ」


暗闇に俺は話し掛ける。そこには誰かが確かに存在していた。


「嘘なんだよな」


自分に言い聞かせるような問いかけ。


「お前がこんなことするわけ…」


またも走る銀色の光。それは右頬の皮一枚を切り裂く。

目の前で誰かが銀色に煌く物を持って立っていた。

不意に月明かりが漏れる。

そして、相手の姿がはっきりと俺の目には映っていた。


「嘘だよな…」


再度確認してしまったその姿。あまりにも見慣れてしまった相手の姿。もはや現実としか認められないその状況で、俺はまだ現実ではない可能性を願っていた。

それでも…

一閃。銀色の光が前髪の一部を切り落とす。

相手は笑っているように見えた。異様に光を燈すその瞳が冷酷に俺を見つめていた。

──右手には鈍く輝くナイフを携えて。


「嘘だって言ってくれーーーーー!!」


現実への拒絶感。俺は無意識に叫んでいた。

しかし、現実は変わることはない。



目の前には……美坂香里が存在していた。




































「祐一の彼女さん その8」

Written by kio











嘘だ、信じられるはずが無い。

悪夢のような現実。感じたくもないのに感じてしまう殺気。美坂香里が俺を殺そうとしている。それが今の状況だった。


「美坂、やめろ、やめるんだ!!」


必死の叫び。だが、彼女に届くことはなかった。

鈍い輝きをかもし出すナイフが襲ってくる。それは美坂の手にしっかりと握られていた。

俺は逃げる。美坂に殺されないように。

俺の左手が軽く熱を持っていく。

目視できるほどの赤がそこからは漏れている。

怖かった、俺は自身が何よりも怖かった。ある日突然目覚めてしまった俺の力。それはあらゆる存在をいとも容易く葬り去ってしまうことが出来る。

俺は自覚していた。間違いなく自分に死が迫ったとき、赤は開放されるだろう。それは無意識に、無差別に。この状況はそれを現実にしてしまう可能性が高い。

怖い。己の体が震えているのが分かる。俺は何に対して恐怖を抱いている? 分かっている。そんなのは自問するまででもない。

そう、もっとも怖いのは俺の手で彼女を、美坂を殺してしまうことだった。

俺は美坂から離れようと走る。だが、彼女との距離は縮まることはない。むしろ、距離は詰まる一方。

どうすれば良い? 先ほどから自問はしている。それでいて答えは出ない。ここにいるのは俺と美坂だけ。助けてくれる人はいない。自分がどうにかしなければならなかった。

一閃。

またも俺の体を切り裂いていく、無機質な金属。

しかし、俺は何度我が身を切り裂かれても己の死のイメージを抱くことは無い。なぜなら、俺が死ぬ前に彼女を殺してしまうから。膨らんでいく美坂の死のイメージ。それを払拭することがどうしても出来ない。

現状では二つの選択肢が残っていた。

一つはこのまま逃げ続けて、美坂から離れること。もう一つは逃げるのをやめて、彼女と対自すること。

前者は互いに死ぬことも殺すこともなく、最良の選択肢だった。しかし、問題が解決できるわけでもない。なによりもそれは実現不可能な選択肢でもある。出血のせいか俺の体力は限界を迎えていた。おそらくあと数分にも満たないうちに俺は走れなくなる。現に美坂との距離を離すことは出来ずにいる。

後者は最悪の場合彼女を殺すことになってしまうだろう。だが、俺には一つ考えがあった。それは俺が死ぬという選択。彼女を殺す原因となる赤の力が無意識をもって発動すると言うのであれば、己の意識下に抑えてしまえば発動することはない。単純なようで、簡単ではないことであった。確かに無意識の行動というのは意識してしまえば多少は制限をあたえることは出来る。しかし、それがこの力にも通用するのかという未知の部分が俺に危惧を抱かせる。

それでも今は他の選択肢を選ぶことは出来そうにもなかった。

俺は足を止める。


「はぁっ、はぁ…はぁ」


息がすっかり上がっていた。体がふらつく。おそらく気を抜けば倒れてしまうのだろう。けれど、倒れるわけにはいかない。


「ふぅっ…、さあっ、美坂、俺を…殺せ」


決意に満ちた瞳。俺は自身の選択に後悔はしない。それでも俺の鼓動はおかしいぐらいに激しく鳴っている。

怖い。泣き叫びたい。死ぬのが怖くないはずなんてない。それでも俺の手で彼女を殺すよりは随分マシなような気がした。美坂が俺を何故殺そうとしているのかは分からない。何故、彼女がここにいるのかも分からない。気がかりではあったが、俺はこれから死ぬ準備をしなければいけない。だから、そんな考えは直ぐに消え失せた。

意識を集中をする。無意識を意識下に置くために。

最後にせめて自分の死の前に、美坂の顔を記憶に残しておきたかった。片思いではあったが俺は彼女に好意を抱いていた。銀色の光は迫っている。それは俺の心の臓を狙っていた。そのナイフの奥に彼女の姿がある。……いや、『あった』と言った方が適当であった。

ザシュッ

俺の右肩にぐっさりとナイフが刺さっている。俺はとっさにその一閃を避けていた。


(…こいつは美坂じゃない!?)


先ほど見えた美坂の姿、それは以前見た化け物の姿であった。もう一度、美坂だったものを見つめる。もはやそれは異形の姿として固まっていた。そして、それと同時に俺の心のどこかでそいつを美坂と感じていた何かが崩れ去った。


「…お前は美坂じゃない…」


確信の篭った言葉。そう、俺は確信していた。こいつは美坂ではないことを。この感覚も赤の力と同様に未知であるような気がする。だが、ここでは信用しても良いと思った。

左手に赤が灯る。それは無意識化で放たれていたよりも強い赤。強い光。

空間が赤に包まれていく。


「…お前が何なのかは分からない」


赤が美坂だったもの、異形の存在に集まっていく。


「だがな、お前は最悪のことをした」


赤が凝縮されていく。異形の存在の姿は完全に赤へと染まっていた。


「…消えろ」


言葉と共に赤は色を失っていく。何かの音がした。それは異形のものの断末魔なのか、赤がかもし出す音なのかは分からなかったが、もはや目の前には何も存在していなかった。



そして、俺は同時に意識が闇の中に包まれていくのを感じていた。

























あとがき
北川について詳しいことは番外編「真夏の夜の夢」を見てください。









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