***** プロローグ *****

 雪のように冷たい雨があたしの熱を奪っていく。
 下半身に感覚はなく、体はピクリとも動かない。
 ああ、と理解する。
 あたしは現実に戻ってきたんだ、と。
 輝きに満ち溢れた『あの世界』にもう戻ることはない。
 でも、あたしは満足だった。
 死の間際の一瞬でも、あたしの青春は確かにそこにあった。
 憧れの学園生活。
 大好きな物語のヒロインになって、大冒険を繰り広げる日々。
 大好きな男の子と出会って、恋をするそんな夢物語。
 だから、後悔はない。
 これ以上を望むのは我が侭になってしまう。
 あたしに許される以上の奇跡をあたしは手にしていたんだから。
 ……でも、最期に。
 最期だから、幸せな想像ぐらいは良いよね?
 優しい夢を見ながら逝っても良いよね?

 理樹くんがあたしの手をひいている。
 楽しい日々。それが日常だった。
 赤いハチマキをした男の人と袴姿の男の人があたしの隣を駆けている。
 温かな日々。心地よい世界だった。
 端整な顔立ちの男の人があたしを優しく見守っている。
 眩しい日々。光り輝く毎日だった。
 ……あたしは彼らの中心に居て、ヒロインで、それから、それから……友達がたくさん居て……理樹くんの恋人で……ええと………………。

 体から雪のような冷たさが消えていく。
 代わりに、春のような温もりに包まれていく感触。
 雪解けから陽だまりへ。
 ……ああ、温かいな。
 まるで本当の春がやってきたみたい。
 だからかな、凄く眠い。
 …………理樹くん……………………。
 最期に大好きな人の名前を呼んだ。

 


***** 1 *****

 ……あれ……。
 温かなまどろみから覚める。
 生きてるや、あたし……。
 不思議なことに体から痛みは消えていた。
 そんな、馬鹿な……。
 あたしは死んだはずで、助かるはずがないのに。
 眩しい光に手をかざす。
 あれ?
 手の平が小さかった。
 何が起こっているのか全然理解出来ない。
 そもそもなんであたしは生きているの?
「起きたかい、あや」
 え? お父さん?
 目の前に居るのは紛れもなくあたしのお父さん。
 見間違えるはずはない。
「どうした? 夢でも見てたかい?」
 夢? 全部夢だったの?
 そんなはずない。
 あれが夢だったならあまりにも現実味がありすぎる。
 あれ? あれって何だったっけ?
 でも、そうだったとしたらとても長い夢だった。
 お父さんがあたしに夢の内容を聞いてきた。
 だから、あたしは『その夢』の内容を語った。
 お父さんは楽しそうに笑っている。
 そして、その夢の中で恋をした男の子の話をする。
 夢の中の男の子の名前は、不思議なことにこっちに来てからずっと遊んでいる男の子の名前と一緒だった。
 お父さんにからかわれながら、あたしはいつものように男の子を遊びに誘いに行く。

 それから暫くして、あたしは日本を離れた。
 りきくんと離れるのは辛かったけど、あたしはお父さんに着いて行くしかなかった。

 日本での日々を知ってしまったあたしは弱くなっていた。
 耐えられなくなりそうな日々もあった。
 それでも何とか耐えた。
 お父さんが居たから?
 多分そう。
 お父さんを嫌いになんてなれなかった。
 親としてはどうなのかなって思う育て方ではあったが、あたしは一人の人間としてお父さんを尊敬していたから。

 やがて成長し、状況も変わり、あたしは日本へと帰ってきていた。
 季節は冬、住まいは山奥のプレハブのような場所。
 簡素な診療室であたしたちは日々を送っていた。
 久方ぶりの慣れない日本での暮らしだったが、なんとか毎日を送ることはできていたと思う。
 ただ、何故だか私の胸は常に焦燥感に駆られていた。
 理由が分からない。
 第六感とでも言うのだろうか、嫌な感触がしこりのようについてまわる。
 気にはなったが、あたしはそれを行動まで移すことができずにいた。
 正体不明のもやもやは形をとることはなく、あたしを無駄に不安にさせる。
 ある夜、雨音が聞こえた。
 記憶にある雨音だった。
 いや、記憶じゃないかもしれない。
 それはあたしの心に刻まれていた。
 一瞬のフラッシュバック。
 土砂崩れ、冷たい雨、死、作り出された世界、沙耶、……そして、理樹くんっ!!
 心の奥底で封じられていたあたしの記憶が奔流のように蘇ってくる。
 夢じゃなかった。
 あの過去もあの世界も確かにあった出来事だった。
 幼いあたしはそれに気づくことができず、それを夢にしてしまっていた。
 無理もない。
 今のあたしでも半信半疑なのだ。
 正直、この瞬間も妄想のように思えてくる。
 それほどまでに、あの世界は絵空事のようにありえなくて、輝きに満ち溢れていた。
 だけど、間違わない。
 あの世界は確かに存在していた、あたしも確かにそこに居た。
 だから、今ここにあたしは居るのだ。
 結局のところ、地下迷宮の秘宝はタイムマシーンだったのだ。
 ただし、記憶のみを過去へと飛ばす限定的なタイムマシーン。
 その一方であたしの願った生物兵器も確かに秘宝として存在していた。
 死へと至らしめるそれは、間違いなくあたしを一度殺している。
 あのゲームの中のリプレイみたいな死ではなく決定的な死。
 銃で自害したあたしは現実へと戻り、そして死んだ。
 でも、記憶だけは過去のあたしへとタイムトラベルを果たす。
 だから、今のあたしはパラレル的な存在と言えるのかもしれない。
 もちろん、これは全てあたしの憶測に過ぎない。
 しかし、全ての状況をふまえていくと一応はそのような形に落ち着く。
 あの世界が過去を変える力まで持っているのかと聞かれれば、疑問は残るが現にあたしが存在している。
 いや、もしかしたら、今のこの世界もあの世界と同じように作られた世界なのだろうか?
 それを確認する術はないが、生きているその事実は素直に喜ぼう。
 それにここが現実だとしたら、あたしは彼を救うことができるかもしれない。
 詳細までは分からなかったけど、あの世界は死の間際の世界に違いないから。
 だから、死に瀕したあたしが迷い込むことができた。
 ……さて、状況整理はこの辺で良いだろうか。
 理樹くんを救うため、あたしは早速行動を開始した。

 始めの行動は単純明快。
 あたしがここから生き残る術をとった。
 すなわち、土砂崩れが起きる前に全員で非難を果たしたのだ。
 正直かなり見苦しいこともしたので思い出すのも嫌なのだが、何とかそれは達成を果たす。
 本当にギリギリのところだった。
 非難を終えて間もなく土砂崩れが起こっていた。
 そして、それはあたしの記憶が正しいことの証明にもなった。

 さて、次は理樹くんだ。
 あたしはまず過去にりきくんと遊んだ場所を探した。
 これはお父さんに聞いたら、すぐに判明した。
 あたしの中でりきくんと理樹くんは既にイコールで結ばれている。
 だから、理樹くんと同じ学校に通うことも意外に容易かった。
(土砂崩れの件のせいかお父さんの説得も同様に容易かった)
 ここまで来ればあとはその瞬間まで待つだけ。
 でも、その瞬間とはいつやってくるのだろうか?
 それだけが不確定だった。
 多少の不安を胸に抱きつつもあたしは夢にまで見た学園生活をそれなりに謳歌していた。
 理樹くんとは違うクラスになって遠目で眺めるだけだったけど、彼を見るだけであたしの胸は締め付けられるように切なくなった。
 思えば、あたしは何故この時に理樹くんに話しかけなかったのだろう?
 多分、怖かったのかもしれない。
 あの世界での出会いがなく、幼い頃の出会いの記憶だけでは、あたしは一歩を踏み出すことができなかった。
 でも、本当にそれだけなのだろうか?
 あたしが本当に恐れていたのは……。
 そうだ、本当に恐れていたのはタイムパラドックス。
 すなわちここで理樹くんと出会うことであたしの存在がなくなってしまうかもしれない可能性。
 何故なら、あの世界があったからあたしはここに存在していられる。
 だから、それを壊す選択をしてしまうことで、あたしは消えてなくなってしまうかもしれない。
 杞憂なのだと思う。
 だけど、怖かった。どうしようもなく怖かった。
 それに関連して、あたしは目を背け続けていたことがあった。
 後悔している。
 今、この瞬間あたしは後悔している。
 自分のことばかりしか考えず、結局あたしは理樹くんを……。

 修学旅行中、理樹くんの乗ったバスは事故に遭った。
 あたしのクラスのバスが後続に続いていたため、否応なしにその光景を目撃してしまう。
 そして、その場所は土砂崩れのあったあの山奥の近くだった。
 本当なら気づくべきだった。
 いや、気づいていて知らないふりをしてしまっていたのだ。
 最悪だ、あたし。
 冷静に考えれば、正確な事故現場を知らなかったあたしにできたことなど高が知れている。
 それでも、あたしはこの最悪の状況を変える術を持っていたのだ。
 それを自ら無意味にしてしまった。
 最悪だ、としか言いようがない。
 一瞬、生身で理樹くんを助けに行こうとも考えた。
 だけど、自殺行為にしかならないことに気づき、何もできなかった。
 自己嫌悪に苛まれながら、あたしは数時間後に奇跡を聞くことになる。

 


***** 2 *****

「理樹くんっ!!」
 あたしは病院の中にも関わらず、大声を上げてあまつさえ彼に抱きついていた。
 傷に触ってしまったのか、理樹くんが軽くうめき声を上げる。
 ああぁーーっ、あたしの馬鹿っ!!
 自己嫌悪モードに入り込む寸前で理樹くんが驚きの表情であたしを見ていることに気づく。
「さ、沙耶……さん?」
「うんっ!」
 あの世界であたしは沙耶だった。
 だから、あたしは頷く。
 嬉しさで涙がこぼれた。
 覚えていてくれた。
 理樹くん、あたしのことを覚えていてくれた!
「夢、じゃないよね……?」
 未だ信じられない表情で理樹くんが訊ねてくる。
 あたしは『うん』と頷き、これまでのことをゆっくりと語っていく。

 幸せな日々の予感がした。