この雪の町を訪れてから一年の月日が過ぎ去ろうとしていた。
この一年間は本当にたくさんのことがあったと思う。
出会い、別れ、喜び、悲しみ──それらの終着点は様々だった。
ある意味、この一年は人生の縮図を見つめ続けていたのかもしれない。


この物語は一枚の手紙から始まった。
折原浩平という青年が託した白い手紙。


それがもたらした出会いは今、一つの答えを導き出そうとしていた。

















伝わる想いIF 「輝く季節へ」

Written by kio









「相沢君、大切な話があるの」

さわやかな朝の空気を満喫しながら、教室入ると目の前にはいつになく気合の入った七瀬さんがいた。

「はあ……?」

「それじゃあ、忘れないでね」

自分の席へと静かに七瀬さんは帰っていく。
思わず生返事をしてしまったが、会話の内容を思い出してみる。

「……はて?」

大切な話があると言っていたように思う。
こんな朝早くから、約束をしなければならないほど大切な話とは一体なんだろうか。

「ん、今日の七瀬さんは気合が入っているな」

北川が教室に入ってくる。
二人並んで自分の席へと向かう。

「やっぱり、そう思うか? 北川」

「おう、あんな彼女は初めてじゃないか」

「そうだよな」

俺が今日彼女に抱いていた印象と北川のものとは大差がないようだった。

「何か悪いことでもしたか、相沢」

「いや、そんな覚えはない……と思う」

少なくとも友達と思っている人に嫌われることはやってはいない。

「たぶん彼女はご立腹よ」

「うわっ、いきなり現れるな、美坂」

美坂香里がいつの間にか俺の机の前に来ていた。

「失礼ね、さっきから居たわよ」

「さっきって何時だよ?」

「一秒前よ」

北川の疑問にさも当然のようにそう答える彼女はある意味大物だろう。
最近妙なキャラになってきたと思う、香里は。

「それで相沢くん。七瀬さんに何をしたの?」

「だから覚えはないって」

「いいえ、そんなはずはないわ。彼女のあの様子は乙女を目指せど、乙女になりきれない格闘系キャラのあれよ」

たぶん昔の七瀬さんはそんなキャラだったと思う。
それを何故香里が知っているのか。
狙っているのか、偶然なのか判断がつかない。

そんな風にいつもと違う七瀬さんについて話していると。

ピンポーン、パーンポーン

『3学年生徒会所属、相沢祐一、至急生徒会室に来るように』

教室内のスピーカーから聞きなれた生徒会長の声が聞こえてきた。
どうでも良いことかもしれないが、あのピンポーン、パーンポーンと言う音は気が抜けると思う。

「相沢、お呼びだぞ」

「はぁ、まったくあいつは」

すでに3年生は退くべき時期にありながら、久瀬と俺だけは未だに生徒会に所属している。
何でも奴の世直しがまだ出来ていないらしい。
そのため表向きは後輩達、新生生徒会が生徒会を運営していながらも、実際は久瀬がその実験を握っていた。

「仕方がない、行ってくるよ」

「まぁ、頑張れよ」

「きっと昨日、相沢くんが彼女からカレーパンを取ったから……」

香里よ、変なことをでっち上げるな。
最近、明るくなってきたのは良いが、微妙な方向へ進んでいっていないか。
とにかく、教室を出て生徒会室に向かう。



その途中、半眠中の名雪と会った。

「おっ、名雪」

「祐一、眠いよ」

半分寝ていながら、眠いとはこれいかに。

「それでも今年は遅刻してないだろ、お前」

「けろぴー、と一緒だから大丈夫」

カエルのぬいぐるみが名雪の腕から現れる。

「うわっ、ぬいぐるみを学校に持ってくるな」

こんな名雪だったが、三学年に上がってからは一度も遅刻はしていない。
ある意味これは努力の賜物だった。

「これは没収するぞ」

こんなものを持っていったら従姉妹の恥だ。
けろぴーを取り上げる。

「……祐一、今夜は紅しょうが。好き嫌いは駄目だおー」

寝てるよな、あいつ?
試しに、けろぴーを与えてみる。

「大好きだよ、祐一」

言葉にハートマークが浮かんでいたような気がする。
とりあえず、紅しょうが嫌だから名雪の恥は見て見ぬふりをすることにした。










「来たぞ、久瀬」

「ああ、そこら辺に座ってくれ」

この生徒会室には立派なソファがあったりする。
それは生徒会に所属する者達にとっての座席代わりでもあった。
ちなみに久瀬は一人だけ椅子だ。
よく会社とかの社長が座っているあれだ。

「はいよ」

「それでは早速で悪いがこれらの書類の整理を……」

大量の書類が久瀬の机の上に乗っている。
それは一介の学生が処理する量ではないだろう。

「なあ、久瀬。そういうのは流石に下の学年に任せても良いんじゃないか。一応は生徒会に在籍してるとは言え、本来なら引退扱いだぜ、俺達」

久瀬が働こうとするのは良いことだとは思うが、そろそろ後輩達に仕事を任せないと結局困るのは彼らだろう。

「そういうわけにもいきませんよ。これは私達の代で終わらせるべき書類ですから」

久瀬は作業していた手を休めて俺を見る。

「どういう意味だ?」

「過去の遺物と言いましょうか、先代の忘れ物と言いましょうか」

珍しく歯切れの悪い久瀬。
いや、これは皮肉か。
どれだけ彼が先代の生徒会を良く思っていなかったのかが分かる。

「要するにお偉い卒業生様が処理しなかったものと言うことか」

「ご名答です。全く彼らには呆れますよ。これでよく人の上に立っていたものです」

やれやれと久瀬は首を振る。

「それをわざわざ処理しているお前にも呆れるよ、俺は」

「ふっ、やりがいがあるではないですか」

久瀬と共に生徒会に所属していて分かったことがいくつかある。
その一つが俺と奴との相性が意外にも良かったということである。

「はいはい、分かったから。俺達はこの山のような書類を片付ければ良いんだな?」

「はい、ノルマは私とあなたで2:1でよろしいですね」

「まぁ、そんなもんだろうな」

久瀬は書類処理のプロフェッショナルだった。

「ちなみに今日中にお願いします」

そして、冷酷な奴だった。

「……お前にはたっぷり借りがあるからな」

俺の苦笑いに久瀬も苦笑する。

「礼を言いますよ、相沢祐一」










「大変そうだな、相沢」

後ろの席から北川が話しかけてくる。
授業の空き時間、俺は一所懸命に書類の処理に励んでいた。

「今では日常茶飯事だよ、全く」

呆れた口調半分、自嘲半分。
実は今回のようなケースはよくある。
それなりに校風が穏やかなこの高校と言えども、処理する問題は毎日のように発生する。
どんなに小さなことであろうと、問題があればそれを処理しなければならない。
昨日だって、新生生徒会だけでは手が足りないからとかなんとかで、書類整理に借り出される始末。

「大変そうね、名雪」

「そうだね、香里」

じーっ

香里と名雪の視線が俺の方を向いているのが分かる。

「今日中に終わるのかしら、あれ」

「どうだろうね」

じーっ

じっと見つめるな、視線が痛い。

「……何が言いたいんだ、二人とも」

「だから、大変そうだなって」

「仕事の鬼だね、祐一」

「…………」

ごほんとわざとらしく北川が咳払いをして補足してくる。

「つまり美坂と水瀬はお前の手伝いをしたい、と言っているんだ」

「待て、北川。どう翻訳すればそうなるんだ」

俺の中の辞書はそんな変換をすることはできないぞ。

「率直に言えばそうね」

「そうだよ」

「…………」

流石旧美坂チームと呼ばれるだけのことはある。
見事な以心伝心ができている。

「その気持ちには感謝するが、これは生徒会の仕事だからそういうわけにもいかないんだ」

と言うか、俺と久瀬以外の生徒会の役員にも任せたくない類の書類なんだが。

「全く、あなたは真面目なんだから」

香里が少し呆れた口調で呟く。

「もう少し融通を利かせても良いんじゃないかしら?」

「俺は真面目ではないし、これは性分なんだよ」

元来、俺は任せられた仕事は最期まで終わらせなければ気が済まない性格をしている。
それは時には長所になるが、最近では短所になってばかりのような気がする。

「うーん、それじゃあ、祐一の邪魔にならないようにじっとしてるよ」

「ああ、助かる」

最近の名雪は学校に来て、寝ると言うことが少なくなってきている。
それは最上級生としての自覚か、将来のことを考えてかは分からない。
だが、喜ばしいことであるとは思っている。


じーっ
じーっ
じーっ

名雪、香里、北川の視線が俺を責め立てる。

「その、じっとしてくれるのは助かるが、あまり見つめないでくれ、集中できない」

何故、北川までそれに参加するのか。
まだまだ書類の数は減りそうにもなかった。










「祐一、お昼だよ」

「学食に行きましょう」

名雪と香里の声と俺が書類処理を始めたのはほぼ同時だった。

「これ終わらせないといけないから、今日はパスだ」

カリカリと紙の一枚一枚を消化していく。

「うーん、最近、祐一と一緒にお昼食べてないよ」

「悪い」

責めるなら久瀬を責めてくれ。

「まぁ、仕方がないわね。──七瀬さん、学食に行きましょう」

香里が七瀬さんを昼食に誘っている。
彼女は変則的な美坂チームの一員として知られている。
弁当を持参してくるとき以外は美坂チームに参加することになっている……たぶん。

「ええ、……行きましょう」

七瀬さんは朝の何とも言えないプレッシャーを保っていた。
ゆらりと彼女は席を立つ。
何かを感じ取ったのか香里は一歩後退っていた。
とりあえずそれは視界の隅に追いやっておく。

「北川、悪いけどパンか何か買ってきてもらえるか?」

「OK。頑張れよ」

「ああ」

書類の整理を再開する。

ぐ〜

腹が減っていた。











「終わった……」

小声で呟く。
時刻は六間目終了十五分前。
半ば内職のような状況で本日の書類処理は終了した。
授業中でありながら、教員は暗黙の了解と言うように、俺の内職を容認してくれている。
その裏では久瀬が動いているとかいないとか。
それはともかく、安堵の息を吐く。
何よりも作業を終えたという気持ちが大きかった。
この作業、初めのうちは終えたときの満足感や達成感を味わうことができていたが、最近ではすっかり時間との勝負みたいなものになってきていて、疲労しか残らない気がする。

「祐一、お疲れ様」

隣の席から、ひそひそと名雪が労いの言葉をかけてくれる。

「さんきゅ」

軽く手を振って、感謝の言葉を返しておく。
さあ、あと15分どうしたものか。
この時期ともなると授業内容はいかにも適当です、というものになる。
それはそうだ、受験生を多く抱える学年で今更、新しいことを教えるぐらいだったら、今まで学んだことを復習した方が良い。
事実、そうしている生徒も多いようだ。
だから教員にも生徒にもやる気が感じられない。
俺の内職を容認している理由も実はそこにあるのではないかと思う。
久瀬、アフターフォローは不要だぜ。
心の中でニヒルに呟く。

微妙な時間だしな、放課後の予定を確認でもしておくか。
とりあえず生徒会室に寄って、この大量の紙を預けて来る。
その後に急いで屋上へと向かう。
今のところ、そんなところだろう。
掃除当番には当たっていないため、つつがなく進む予定だ。

…………。
七瀬さんの大切な話とは何なのだろうか。
朝から作業に没頭していたため、深くは考えてこなかったが、ずっと気になっていたことも事実。
たぶんあの時、七瀬さんは極度の緊張状態にあった。
決して、彼女の気合が暴走しているわけではない。
普段の彼女を見ていれば、それぐらいすぐに分かる。
問題はそこまで緊張するほどの話とは何かと言うことだ。
思いつくことと言えば二つ。
まずは折原浩平のこと。
彼がこの世を去ってから、もうすぐ一年が経つ。
それは彼女が気持ちの整理をつけるのには十分な時間。
七瀬さんが何らかの行動を取るには丁度良い時期なのかもしれない。
だが、彼女が望むであろうことは俺にはどれも叶えることができない。
──奇跡は一度しか起こらないのだから。
しかし、賢明な彼女がそれを望むかは正直、微妙だ。
それでも駄目もとで聞いてくる可能性は否定できない。

そして、もう一つの可能性としては……。
彼女自身のこと。
そろそろ答えを出さなければならないのかもしれない。
一年と言う月日が長いか短いかは人によって違う。
果たして彼女にとってはどうだったのだろうか。
もしかしたら、答えを見つけたのかもしれない。



気がつけば授業は終わり、ついでにホームルームも終わっていた。
それほど長い時間思考していた自覚はないのだが。
教室を見渡してみると、すでに七瀬さんはいなかった。
さて、早いところ生徒会室に行って、屋上へと向かうか。









「今日のノルマだ。受け取ってくれ」

今日二度目の生徒会室への訪問。

「ご苦労様です」

久瀬が暖かく迎えてくれた。

「それじゃあな」

ぱっと久瀬に書類を手渡して、生徒会室を出て行こうとする。

「もう少しゆっくりしていっても良いのではないですか?」

呼び止められた。

「いや、今日は先約があってな」

久瀬は少し思案するが、結局は諦めたようで。

「そうですか、それなら仕方が……」

「か、会長!!」

久瀬の言葉を遮って、一人の生徒が大慌てで生徒会室に入ってくる。

「どうしましたか?」

見慣れた、生徒会の後輩の姿だった。
俺達の間ではヤギさんと呼んでいる女性でもある。

「か、会長が…いえ、久瀬会長ではなく、現生徒会長が、そ、その、倒れましたっ!」

久瀬の顔つきが変わる。
それはどんなときにでも冷静で冷徹である、人の上に立つものの顔であった。

「詳しい状況説明をお願いします」

「は、はい。ええと……終業式準備のため、体育館で作業中、私に倒れ掛かってきて……頭はぶつけてなくて、重くて、その、ゆっくり置いて。うぅ、意識がありません。のっぺんだらりです」

その後輩は冷静に話そうとしたのだろうが、うまくいかなかったようだ。
それでも要点は抑えられていた。

「体育館に他に人はいるのか?」

状況を把握しつつ俺が質問する。

「ぐるぐる……はっ! いえ、私と会長だけしか」

そういえば、終業式準備のため運動部には休みをとってもらっていたか。
体育館を含めたその周辺に人がいないことは頷ける。
幸いにも、生徒会室から体育館までの距離はそう離れてはいない。
答えは一つだった。

「久瀬、行くぞ」

「ええ、急ぎましょう」

室内にいた後輩二人を引き連れて、俺達は体育館に向かった(とりあえずヤギさんは混乱していたので残ってもらった)。

久瀬が様子を見ている。

「気を失っているだけ、ですね。見たところ外傷はありませんし、頭部もぶつけてはいないようです」

久瀬は以前医学の心得があるとか言っていた記憶がある。
こいつに限って、見栄を張るような嘘はつかないだろう。
だから、久瀬の知識をもって気を失っているだけと判断したのなら、それを信じることが正しい。

「それなら、ここに置いとくのは不味いな」

体育館の温度は外よりはましとはいえ、長時間いれば身体に影響が出るだろう。

「そうですね、このままではどんどん体温が下がっていってしまいます。私達で保健室まで運びましょう」

そのために久瀬は後輩を二人連れてきていたのだろう。
気を失った人間と言うのは子供であっても、運ぶのに大の大人が数人がかりで運ばなければならないらしい。
現生徒会長は小柄な女性とは言え、子供よりは体重も身長もある。
人員は必要であった。
久瀬は沈着冷静を絵に描いたような奴だから、こういうときには本当に頼りになる。
俺達は彼女を四方から囲んで、運ぼうと持ち上げる。
しかし、うまく持ち上がらない。
と言うか一箇所が足を引っ張っているような気がする。

「久瀬、きちんと持て」

久瀬の担当場所が全く持ち上がっていない。

「はぁ、はぁ、……こんな時、非力な自分が悲しくなりますよ」

全力だったらしい。
仕方がない、誰か応援を呼ぶしかないだろう。

「あれ? 相沢か」

体育館に北川が入ってくるのが見えた。

「北川、どうしてここに?」

一瞬、驚く。

「ちょっとシュートの練習でもしようかな、って思ってたんだけど…もしかして立ち入り禁止か?」

そう言って、北川はバスケットボールを投げる仕草を見せる。
いつも都合の良いところに現れてくれる親友だった。
もしかしたら北川には危険察知の能力があるのかもしれない。

「いや、助かる。とにかく手伝ってくれ」

「おう。よく分からないけど」

久瀬には外れてもらって、北川を加えた四人で彼女を持ち上げる。

「意外に大変だな」

そう言いながらも北川は涼しい顔だった。
俺や後輩二人はすでに辛い顔をしているのだが。

「何とかなりそうですか?」

俺の後ろで久瀬が尋ねてくる。

「ああ、…何とか保健室までは持つだろう」

「それでは私は先に保健室に行って、準備をしてきます」

「任せた」

久瀬は駆け足で体育館を出て行った。
それを確認して、俺達はゆっくりと彼女を運んでいく。

「よし、皆、ゆっくりと急いで行こう」

「……相沢、たぶん無理だぞ、それ」





「ふぅ」

保健室のベットの上に何とか彼女を寝かせる。

「お疲れ様です」

久瀬が労いの言葉をかけてくれる。

「結構疲れたぞ」

「ああ、重かったな」

……それは女性に対して禁句だぞ、北川。

「それ本人には言うなよ」

「心得ているって。それよりもお前、屋上に行かなくてもいいのか?」

七瀬さんとの約束を忘れていたわけではなかったが、目の前の出来事を優先してしまっていた。
保健室の壁時計の時刻を確認する。
放課後になってから大分時間が経ってしまった。

「……急いで行ってくる」

「相沢祐一、私から謝罪をしようか」

久瀬が気を回してくれる。
だが、これは俺の問題だ。

「いや、気にするな」

「そうか」

おそらく彼もその答えを予想していたのだろう。
あっさりとした返事だった。

「それじゃあな」

「おう」

「ええ」

北川と久瀬に言葉を残して、屋上へと急いで向かう。












風が冷たかった。
雪が降っても不思議ではない気温。
それでも、ここ最近は雪が積もることだけはなんとか免れていた。
屋上への扉を開ける。
息が白い。
そこにはただ一人待ち続ける七瀬さんの姿があった。

「はぁ、はぁ……七瀬さん、ごめん、遅れた」

息を整える。
彼女は無表情で俺を睨んでいる…ように見えた。

「この埋め合わせはきっとするから」

頭を深々と下げる。
怒られる覚悟はしていた。
ただ、穏やかな七瀬さんの姿に見慣れていたため、どうしても彼女の怒った姿を想像することはできなかった。

「ふふっ、別に怒ってないわよ」

顔を上げると七瀬さんはいつものように微笑んでいた。

「あなたが遅れたのには正当な理由があるのでしょう?」

確かに理由はある。
だが、それはいいわけだ。
どんな理由だろうとこの寒空の下、彼女を待たせてしまったことには変わりない。

「……でも、七瀬さんを待たせてしまったから」

彼女は俺の言葉を否定するかのように静かに首を振る。

「ううん、良いのよ。何となくその方が相沢くんらしい気がする。困っている人のことを見捨てて置けない、それは美点よ。それに私も待たされたおかげで緊張が抜けたんだし……」

彼女がそれで良いとしても俺自身は後ろめたい。
彼女の少し紫がかった唇を見ると、どうしてもそう考えてしまう。

「それでも後で埋め合わせさせてもらうよ」

彼女は困ったように思案するが、すぐに微笑みへと表情を変えた。

「ふふ、ありがとう」

少し間ができた。
何となくお互いに話しかけづらい間に思えた。
だけど、それはほんの一瞬で、七瀬さんがポツリと言葉を漏らしていた。

「──相沢くんと出会ってからもうすぐ一年。もうそんなになるのね」

彼女はどんな思いでその言葉を告げたのだろうか。
よみがえるのはこの一年の思い出。
悲しみも喜びも全て受け入れてきた記憶。

「……確かに、月日が経つのは早いかもしれない」

「ふふっ、年寄りくさいよ。相沢くん」

苦笑する。

「でも、それだけ相沢くんは苦労しているのかもしれないわ」

苦労しながら人生を過ごしている人は時間の流れが速いと言うやつだろうか。

「ねぇ、相沢くん、覚えてる? 私達の出会いを」

初めて出会ったのは職員室の中だったと思う。
お互いに自分以外の転校生がいることを知らず、すこし戸惑いもした。
だけど、あの出会いは悪いものではなかった。

「転校生同士、だったかな」

「うん。今じゃ、お互いに転校生だったなんて思えないくらいクラスに馴染んじゃってるけどね。……不思議な偶然だったな。もしかして運命だったのかも」

嬉しそうに七瀬さんが続ける。
今の彼女はどこかはしゃいでいるようにも思えた。

「あっ、でも、相沢くんは私のことを探してくれていたんだよね」

たぶん俺は驚きを顔に浮かべていた。
でも良く考えれば、未だに彼女達に接点があったとしてもそれは不思議なことではない。

「長森さんに聞いたんだ?」

「うん、話していたら、偶然、相沢くんの話が出てきてね」

「……彼女は今、元気なのかな?」

自分と言う檻に閉じこもってしまった女性の姿を思い出す。
あの時、俺は彼女の力にはなれなかった。

「うん。もう大丈夫だって」

「良かった──」

それは心残りだった。
七瀬さんを探すために訪れた町に忘れてしまったもの。

「相沢くんに感謝していたよ。あなたのおかげで過去との区切りをつけることができたって」

それは違う、違うはずだ。
だって俺は──。

「俺は彼女の心に傷を作った」

今だって後悔している。
無責任な言葉を投げかけてしまったことに。
言葉の一つ一つを刃物に置き換えてしまったことに。

「それは違うよ。長森さんにはきっかけが必要だった。でも、彼女の周りにいる人だけじゃそれを作ることはできなかった。皆、優しすぎたんだよ。でも、相手のためにならない優しさだってあるの。それがあの時の彼女に与えられていた優しさ。だから、あなたの言葉は、あなたの本当の優しさは間違ってはいなかった」

「…………」

「あなたに優しさを貰った私だから分かるの」

何故か言葉が心に染みた。

「……俺はただ折原浩平からの手紙を渡しただけだよ」

俺の言葉を七瀬さんは静かに否定する。

「それも違うよ。私は覚えている、あの時のあなたの言葉を。すごく重くて、私の心に少し痛かったんだから。それですぐに気づいたの。あなたが私なんかよりもっと深い悲しみを背負っているって」

一呼吸おいて、彼女はゆっくりと続ける。

「それにあの手紙の本当の意味──」

彼女の言葉は何よりも──。

「それはあなたの優しさなんでしょう?」

──真実に近かった。

「あの手紙がどうしてあるのかとか、あなたと折原との関係なんて分からないわ。でも、あなたの優しさだけは感じることができる。誰にでも平等に、誰よりも深くあなたが与えている優しさを」

違うと言いたかった。
自分はそんなに高尚な人間ではないと言いたかった。
だけど、彼女を見つめたときそれは言葉にできなくなっていた。

「あの時から、私はあなたのことをずっと見続けてきました」

真摯な瞳、真摯な言葉、彼女は大切なことを伝えようとしている。

「傷ついても、傷ついても、諦めることなく前に進んで、抱えきれないほどの悲しみを背負いながら、あなたは優しく強かった。だから自分よりも他人のことばかりを優先して、自分のことはいつも犠牲にして……見るのが辛いぐらいに……あなたの涙を初めて見たとき、私は耐え切れなかった」

彼女の言葉には少し嗚咽が混じっていた。
だけど、その言葉は濁ることなく綺麗な響きが続いている。

「それでもあなたが望んだから、私は傍観者でいようと思った。──始めはどうしてあなたのことがここまで気になるのか分からなかった。いえ、分からないふりをしていた。でも、あなたを長い間見ているうちに私の想いは耐え切れないぐらいに膨らんでしまった」

彼女は涙を流していた。
それは俺に対してのものなのか、彼女自身に対してのものなのか、それとも──。

「気づいていましたか? 私があなたに抱いていた想いを」

涙と共に彼女は優しい微笑みを浮かべていた。

「ようやく答えが出たんです」

俺は彼女の言葉から逃げてはいけない。

「あなたの胸の中にいる人は知っています。一年前にあんなことがあったのに、私をいい加減な人間だと思うかもしれません。それでも私の想いを聞いてほしいんです」

俺は彼女の想いを聞き届けなくてはならない。

「私は…」

そうすることが真摯な態度を見せてくれている彼女に対しての礼儀。

「私はあなたのことが……」

俺は彼女を、七瀬さんのことを正面から見つめた。





「あなたのことが好きなんです」





たぶん彼女の気持ちに気づいていた。
それでも気づかないふりをしていたんだ。
それが俺の想いを貫くことだと信じていたから。



静寂が支配していた。
彼女の真摯な瞳は俺を見つめている。
だから、俺は正直な気持ちで答えを出さなければならない。

「────」

言葉が一瞬出てこなかった。
どこかで俺は恐れているのかもしれない。
でも、それがどうしたと言うのだ。
彼女は俺以上の勇気を持って、想いを伝えてくれたんだ。
俺も真摯な態度で彼女に答えなくては──。

「──俺の中にはまだあいつがいる。それはたぶん死ぬまで、生涯変わらないことだと思う」

彼女は俺から目を逸らしたくなる自分を必死に抑えて、俺の言葉を聞いてくれているようだった。

「でも、七瀬さんに対しての偽れない気持ちも確かに存在しているんだ」

それはいつの頃からだったのだろうか。
あの日、彼女の胸の中で泣いた日だったのかもしれない。
もしかしたらもっと以前からその気持ちが育っていたのかもしれない。
確かなことは、気がついたときにはすでに彼女に惹かれていたと言うことだけ。
そう。

「俺は間違いなく七瀬さんに惹かれている」

俺が弱さに負けそうになったとき、いつも傍にいてくれた彼女。
いつも支えてくれていた彼女。

「この気持ちはあいつに抱いたものと変わらない大きさで俺の中にある。……でも、それにずっと戸惑っていたんだ。いつも考えないように、気づかないふりを……」

今更、何を言い訳しているんだ、俺は。
本当の気持ちを彼女に伝えなければならないのだろう。
本当は自分の気持ちなんて彼女を自覚したときから決まっていたのだから。

迷いを払い、答えが見える。
改めて彼女のことを見つめて、想いを言葉にする。

「七瀬さん。俺の中にはまだあいつが、舞がいる」

それだけは否定できないこと。
だけど、その気持ちだけでは俺は前に進めない。

だから、本当の気持ちを、言葉を口にする。



「──それでも俺と付き合ってくれますか」



彼女の涙がこぼれる。



「はい。喜んで」



そこには満面の笑顔を浮かべた七瀬さんの姿あった。









雪が降りだしていた。

「?」

何かが俺の頭にぶつかったような気がする。
その部分が少し痛い。
たぶん、雪玉ぐらいのものがぶつかってきたんだと思う。
見渡してみるが、それらしいものは見当たらない。

空を眺める。
白い雪がどんどん舞い降りてくる。


──声が聞こえたような気がした──


『このぐらい我慢しろ。俺の七瀬を取りやがって』

『幸せにね。祐一』


そう、声が聞こえたような気がしたんだ。

「祐一くん?」

傍らにいた彼女が俺を見る。
その瞳は少し不安げだった。

でも心配する必要はないよ。
これは自然なことだから。

俺は静かに涙を流していた。

「なんでもない。行こう、留美」

静かに足を踏み出す。
涙はぬぐう必要はない。
彼女に右手を差し出す。

「──はい」

彼女は優しく笑ってそれに答えてくれた。

舞い降りてくる白い雪が俺達を祝福しているようだった。