生前、飛田先輩は一度だけ不思議な世界の話をしていた。
 そこは誰も居ない世界で、静寂だけがあって、全てが終わってしまっているところなんだと。
 同時にその世界はあたしたちの生きているこの世界のもう一つの姿であり、飛田先輩がかつて心底絶望を覚えたきっかけとなった場所であると。
 ポツリと呟かれた飛田先輩の言葉が頭から離れない。
 あれもこれも強烈なお別れを残していった飛田先輩が悪いのだ。
『心残りを残してきてしまった』
 男の人の低い声が今でも脳内再生余裕だった。
 ついでなので、その後の会話も私と飛田先輩の音で再現してみる。
『心残りを残すって、意味重複してますけどぉ』
『うぉ! み、三和ちゃん!? いつの間に!?』
『ぷぷ』
『笑われた!?』
 そんなやりとりがあまりにも懐かしくて、あたしの視界が少し歪む。
 ──きっかけなんて些細なものである。
 この日からあたしはよく判らないそんな世界に行く方法を本気で探し始めたのだった。
 時間としては一ヶ月と少し。
 予想していたよりは早く答えに辿りつくことができたのだと思う。
 大幅な時間短縮に貢献してくれた私と同じ糸目仲間(今自分で作った)のあのおっとりとした先輩には感謝しておこう。
 ほんと、ありがたやありがたやです。
 不思議なことを探るのが趣味とか言う変な人だが、まさかあたしの求める答えを持っていることは予想していなかった。
 何でも世の中には相対世界という考え方があって、この今居る世界を絶対世界とした時、必ず絶対世界に対する相対世界が一つあり、その世界は大小の差こそあれ、同じなのだと言う。
 正直完全には理解できていないのでそういうものであると納得するしかない。
 これはあくまで理論の話であったそうなのだが、今居るこの世界を相対世界とする絶対世界から来た人のメモが存在し、それをどういう経過でか入手していたらしく、直接見せてもらうことができた。
 彼女はその手帳を入手したことが不思議へ興味を抱くきっかけだとか何とか言っていたけど、それは置いておいて、メモにはズバリの解答が載っていた。
『明確な方法は存在しない。偶発的に迷い込むことが現状の最適解』
 あまりにもあんまりな解答だった。
 つまり、無理だということをあたりは理解したのだ。
 すんなり諦めることは難しいが、落としどころとして納得はできた。
 あたしはこれでもリアリストなのだ。
 雲を掴むような話に対して、ここまで辿り着けただけでも立派なものだろう。
 ……などと考えていたら『コレ』である。
 結論からいうと、あたしは辿り着いてしまった。
 飛田先輩の言ったあの世界に。
 糸目の先輩の言葉を借りるならば相対世界に。
 本当に偶発的で何がきっかけなのかも分からないが、辿り着けたのだ。
 ただ、この段階まで進んだ今となっては判っている。
 彼の仕業だろう。
 相対世界の行き方を調べる際に、通っている学校の生徒会長に聞いてみたことがあった。
 その上で行き着いたのが件の先輩で、あたしが今居るのはもう一つの世界。
 おせっかいにも今回の彼の出来事にあたしを巻き込んでくれたらしい。
 と言うか、方法はともかく本人が先ほど自白してくれた。
 そんでもって、この世界に居られるのもあと少しだけらしい。
 おせっかいにも程があるアフターフォローであるが、何となくその辺が『せんぱい』に近い気がしたので、素直に厚意には甘えよう。
 さて、この世界。
 確かに飛田先輩の言う通り、寂しい場所である。
 人気はしないし、実際彼ら7人以外はあたし以外居ないのだろう。
 でも、同時に何故だろう少し優しいようにも感じた。
 不思議だ。
 残されたわずかな時間を使って、あたしはそんな世界を廻る。
 飛田先輩の心残りを見つけるために。
 自分自身でも馬鹿なことをしていると思う。
 ヒントはなく、手当たり次第あたしは探し続けた。
 しらみつぶしの末、手つかずの場所は飛田先輩のお家そっくりの建物の中だけとなった。
 そして、遂にあたしはそれを発見してしまう。
 ……遂に、と言ってしまえば嘘になるかもしれない。
 見当はついていた。
 ノーヒントであっても真っ先に探す場所を、あえて避けていた。
 そんなセンチメンタルな逃避も時間制限を課せられた瞬間に果ててしまい、こうして三和鏡子は参ったわけである。
 目の前にあるのは一冊のノートだった。
 正しくはこの世界に住んでいた誰かのノートだったのだろう。
 それをずうずうしくも新品なのを良いことに、あの先輩は勝手に使ってしまったのだ!
 ……なんてね。
 そんな取り留めないことを考えてしまっても、突っ込んでくれる先輩はもう居ない。
 らしくなくため息がもれそうになったけど気にしないことにした。
 あたしは躊躇なく飛田先輩の残したノートを開く。
 書かれていたのはほんの数行。
 上手くはない男の子の字で、飛田透の本心が残されていた。
『帰りたい。約束を守るためにオレは帰らないといけないんだ』
 ……ああ、飛田先輩だ。
 ──出会ってすらいない頃の飛田先輩だけど、それでもノートの中に書かれていた感情は間違いなくあたしの知る飛田先輩のもので、これは再会なんだと思った。
 不意に、世界があたしを追い出そうとしているのが分かった。
 何とも良いタイミングである。
 そこで気付く。
 この世界が優しいと感じた理由を。
 無人の相対世界が優しいのは詰まるところ、ここに辿り着いた人、辿り着かせてくれた人が優しいのである。
 その陽だまりのような感情が、冷たく死んでしまった世界を、少しずつ、本当に少しずつだが温めてくれていたのだろう。
 何故だか確信に近い想いをあたしは抱いていた。
 そこに理由を求めるとすれば、優しい世界の貢献者の一人があの生徒会長であったり、飛田先輩であったり。
 結局、フィーリング的なアレコレになってしまう自分自身に小さく笑う。
『ふぃーりんぐってどういう意味なんだあ!?』と慌てふためく、どこかの巨体を思い出して、あたしは本当に久方ぶりに笑うことができていた。
 そして、笑顔はすぐに別の表情に変わってしまう。
 世界が終わる数瞬前にあたしは気付いてしまったのだ。
 ノートの最後のページの四ページ前、なんでそこに書くんですか……と思わなくもないけど、『らしい』とも思えた。
 それは追記。
 きっと、最期のあの瞬間に、彼はここに一度だけ戻ってきたのだろう。
 だから、思い残しなんて最初からなかったのだ。
「あーあ」
 してやられた。
 ある意味計算だったのだろう。
 伏線だったのだろう。
 あの巨体、あれでも頭は回るのだ。
 今となってはあのデートが意図的過ぎて、あっかんべーでもしたくなってくる。
 ──ふーんだ、良いですよー。
 そっちがその気なら、あたしの心残りもここに置いていきますから。
 そして、次に迷い込んだ人の目にでも触れて、お互いの恥がその人の糧にでもなれば良いんですよ!
 かきかき
 書き終えるのと、優しい世界が終わるのは同じタイミングだった。
 上手くないその文字の下に、あたしの思い残しは記された。
 だから、恥ずかしいけど物凄い満足感がある。
 やってやったぜ! という気分である。
 ノートに書かれた二つの追記、そこには、
『三和ちゃんとのデート最高に楽しかったぜ!!』
『↑あたしもサイコーに楽しかったですよ!!』
 そんな懐かしい会話が繰り広げられていて、無人の世界の温度を少しでも上げられていたら良いな、なんて思ったり思わなかったり。
 ──さあ、まずは飛田先輩のお墓に行こうかな。
 元の世界にあっけなく戻って来たあたしは、さっぱりした気分で初めての場所に足を進める。
 重すぎて向かうことさえできなかった足取りが嘘のように軽い。
 だって、今日は飛田先輩に言いたいことがたくさんあるから。
 思い残しが解決しているなら意味深な呟きはやめてくださいよって文句をつけて、仕返しにあたしも書いてやりましたからねって自慢して……ちょっと嬉しかったですって洩らしたり、それでありがとうございますって本音を言ってみたりして……そんな想像をする。
 気付けばあたしは走り出して、あのデートの日の帰り道のようにアスファルトを踏みしめていた。
 けれど、胸の中に抱えている気持ちは全く別の、少し先の未来を、明日を楽しみにしている三和鏡子で。
 夕日の中、あたしは頬を緩めながら子犬のように駆けて行く。
 ──待ってて下さいね、飛田先輩!
     【『終わりに見えた白い明日』アフターストーリー 了】